赤坂見附一帯は休日にはオフィスワーカーの姿がなく、閑散としていて、ある種ゆったりとした空気が流れている。
先日、久しぶりに豊川稲荷東京別院にお参りさせていただいた。
一時期、もう荼枳尼天様ばかりに頼ってはいけないと思い、お参りすることを控えたこともあったけれども、結局はご縁があるのだろう、こちらにお伺いしている自分が居る訳でして。
こちらの境内は、都内とは思えない程の清々しい雰囲気に満ちていて、訪れる度に心ときめいてしまうものがある。
手水で清めた後、本殿にお邪魔させていただく。
こちらは都内有数のパワースポットということもあり、そんなものを期待して物見遊山で来ているような人も居れば、熱心にお参りしている信者さんらしき方、そして、一目見て、その手の人(霊能とかそういうのを生業としている雰囲気の人)が混在しているのが、こちらの神仏の寛容性を表しているのだろうなぁ、と思ってしまった。
確かにこちらは、都内のど真ん中にあるとは思えない程の霊気に満ちている。
それは特に奥殿で感じるものであり
奥殿でお参りさせていただくと、それを一層と感じることが出来る。
荼枳尼天様は怖いと言われているけれども、荼枳尼天様が怖いのではない。
施しを受けたのにも関わらず、その施しに感謝もせずに、その施しから受けた恩恵を自分だけのものとしている、その欲深さが怖いのだ。
己から発したものは全て自分に返る。
ただ、それだけのこと。
いつも、そんな学びをいただけるからこそ、私はこちらに引き寄せされてしまうのかも知れない。
神仏に救っていただいたと思うのならば、その神仏にお礼をすることは勿論、日ごろ、どなたかに救われたような状況があるのならば、その人本人に直接お礼を述べるなり感謝することが必要なんだけれど、人は時として、その行為をおろそかにしてしまう。
その神仏や誰かからの救いを、無下にするようなことを、荼枳尼天様は許さないだけの話。
すごく真っ当なのだ。