メメント・モリ

翌朝、朝一番に内宮へお参りに行く。

珍しく、誰もいない。

さすがに御正宮前までくると、人が居たものの数名程度。

御垣内参拝させていただいたけれど、その日一番目だったぽい。

一通りお参りさせていただき、宿に戻り朝食をいただいたのちに、再び内宮へ。

この日は内宮でも御神楽をお願いした。

他にも参列される人がいたので、内心ちょっとほっとしてしまった。

13年前のGWに初めて伊勢神宮にお参りさせていただいた。

13年の年月というものは、長いようで短く、その間に私の大切な人達はこの世から去り、大切だと思っていた事柄は私の手からすり抜けて消失してしまった。

正直まだその喪失から立ち直っていない。

そして、UVERworldの歌詞じゃないけど

別れ惜しんで泣くだけじゃなくいつか自分だって
変わらず死んで行くことも忘れんじゃないよと

私もいつか必ず死んでしまうのだという気持ちが渦巻いている。

自分が生きている間にやりたいことは何だろう、と。

無限だと勘違いしていた時間というものは、実は有限で、その有効期限は知ることができない。時間は限られているのだと。

「言葉」にすればありきたりだけれども、目の前に銃を突きつけられたように、身近な人達の死をもって感じる。

伊勢神宮の式年遷宮=「常若」は、古くなったものを作り替えて常に若々しくして永遠を保つという発想であり、永遠に保つということは定期的な「破壊と再生」を繰り返すことが必要だ。

「メメント・モリ」はラテン語で「死を忘れるな」または「死を想え」という意味の言葉。これは、人間の命が有限であり、避けがたい終わりが来ることを常に意識する概念を表している。

どちらにも共通する概念として、避けがたい終わりを常に意識することで、生の輝きが増すとも言え、そしてどちらも「変わらぬもの」を「変化の中」に見出そうとする姿勢があるとも言える。

伊勢神宮は、自然と共に生きる「今」「この瞬間」への感謝が強調され、一方メメント・モリは、死を思うことで「今」への集中と誠実さが導かれるのであろう。

今回ひとりで伊勢に来たくなったのも、こういうことに気付かさせるためだったのかもしれない。

昔行った談山神社で知った、増賀上人について思い出した。
談山神社の宮司様が描かれた増賀上人についての説明文には下記のような記述があった。

「少年の頃より出家した増賀は、長じて道心深く、ある時比叡山根本中堂に千夜籠もって祈願したが、どうしても誠ということがわからなかった。思い立って伊勢神宮へ参拝して祈ると、夢に神が現れて名利を捨てよ!と告げる。そこで増賀は衣服をすべて乞食に与えて素裸になり、京へ乞食をしながら戻る。(意訳)」

伊勢神宮、そこは訪れる人にとって大事な事を気付かせる場所であるということは、今も昔も変わらない。

スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク

シェアする

フォローする

スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
Copy Protected by Chetan's WP-Copyprotect.