自分で自分を殺してはいけない

非常事態宣言も解除されたけれども、その後、美容室に行く為に1回電車に乗った以外は外出らしい外出もせず、相変わらずの在宅勤務&徒歩圏内でのお散歩&買い出しの日々が続いている。

となると、運動不足が気になるところなので、朝晩に軽くヨガをするようになった。

そしてヨガ事体に興味が湧き、ヨガに関する本を取り寄せて読み漁っていた中で、五木寛之さんの御本『気の発見』の対談相手の世界中で気功治療を行う気功家、ヨーガ指導者の、望月勇さんというお方の存在を知った。

『気の発見』もとても興味深い本だったのだけれども『気の発見』を読んで、望月勇さんに興味が湧き、著書を買い漁ってみた。

望月勇さんの著書の中でも、Amazonでの評価が低かった『気の言葉』はあまり期待せずに購入した訳だけれども、私の中ではこの本が一番しっくり来た。

望月勇さんは宇宙のエネルギーなどにも言及されているので、最初はお花畑スピなのか?と思ってしまったけれども、御本を読むと至極真っ当な事をおっしゃっていることに気付いた。

例えば、『気の言葉』のこの文章。

私のもとへは、ときどき精神的に参ってしまった人たちが訪ねてきます。皆さん、精神世界の本をたくさん読んでいる読書家たちで、揃って生真面目です。

~中略~

他の分野の本と同じように、精神世界の本も玉石混交です。また、同じスピリチュアル本であっても、複数の本が正反対のことを主張したりするので、これらを真面目に受け取り続けると頭が混乱します。これが精神を疲弊させる一因となります。

一方で、これらのスピリチュアル的な知識を頭にいっぱい詰め込んで、あれこれ考えをめぐらすようになると、変に頭の働きが活発になったりします。一見、結構なことのように思えるかも知れませんが、そうではありません。その人は、それだけでもうビョーキなのです。日常生活をないがしろにしてスピリチュアルな世界ばかりを追いかける人も、超常的な能力を探し求めようとする人も、ビョーキと言えます。

こういうビョーキの人が、いくら素晴らしい思想を説いても、瞑想を実践して覚りの境地に達したと言っても、最後に必ず精神に変調をきたして、破滅してしまいます。そこでは、本物の思想家だけが、徹底的に考え抜いて、自分が陥っているビョーキの状態から抜け出そうとするのです。

~中略~

こうして自己否定に自己否定を重ね、悪戦苦闘の末に、ようやく自分を縛っていた思考のシステムから自由になれたとき、その人の前には、とてつもなくゆったりとした「普通」の世界が広がっているのが見えてきます。それはあたかも「もうダメだ」と死を覚悟したのに九死に一生を得て、再び見る事ができた「普通」の世界が、以前とは質的に大きく変わってしまったと感じられる体験に似ているでしょう。

そして、今日、天才プログラマーが2週間で構築 テレワークシステムが好評という記事を目にしたのだけれども、その天才プログラマーと言われる登大遊さんのブログを見たら、「論理的思考の放棄」というエントリーの中で、以下3つのことを順守することが必要と書かれていた。

① 努力しないこと
② 論理的に考えないこと
③ 頭を使わないこと

このブログを読んで、思い出したのは、やはり『気の言葉』の中で書かれていたこの文章だった。

いつの時代も「自己実現したい」と願う人が多いようです。自己実現とは、いろいろな定義があるのでしょうが、ごく簡単に言うと「なりたい自分になること」といった意味になるでしょう。

精神世界に足を踏み入れると、「スピリチュアルな力で自己実現しなければ」という思いにかられる人が少なくありません。しかし、これがなかなか難しいのです。私はよく、その悩みを相談されることがあります。

なぜ、自己実現が難しいのでしょうか。それは、「自己実現する」という目的を持ってしまうと、何とかしてそれをかなえたいという自我や自意識が生まれ、逆に自己実現の邪魔をするからです。自己実現したいと思ったがゆえに、それができなくなるのですから、大いなる皮肉です。

自己実現は求めて得られるものではありません。向こうから「やって来る」ものです。自我を離れ、自意識を忘れて、何かに夢中になっているとき、不意に自分に訪れるのです。たとえば、人のために一生懸命尽くしているときや、美しい自然を見て自然と一体になった感覚を味わっているとき、素晴らしい音楽に聞き入っているときなどです。その間、私たちは自分を忘れています。

皮肉なことに、目的を達成しようと必死に頑張っているときではなく、このように自分を忘れ、無我の境地に入っているときに、「自己実現」は向こうから勝手に到来するのです。

私もこれまで生きてきた中で、努力をすれば報われると信じてきた。

しかしながら、努力した(=自己を押し殺した)が故に体調を崩してしまったのが去年の出来事だった。

そして、自分の意思に反したことはしないと誓い、なるがままに任せて今があるのだけれども、努力していたと思っていた頃とは比べられない程の平安がある。

これも信心している神仏のお導きだと思うのだけれども、結局は自分で自分を殺してはいけない、ということなのだろうと思った次第でして。

他人の評価に左右されるなんて、自分の人生捨てているのと同じだと。

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