先月伊勢神宮にお伺いした際に、神宮会館にも立ち寄って神道関係の本を購入した。そして、私が愛読してやまない『大祓詞の解釈と信仰 (1962年)』の改訂版『大祓詞の心』が販売されていたので、こちらも頂戴した。
ヤボ用で出かけた先で、テレビを見る。
年末ということもあって、占い師がタレントさん達の来年の運勢なんぞを占うっていう内容だった。その番組で面白可笑しくネガティブな予言めいた発言をしている占い師達を見て、この人達は一体何の為に占いと言うものを生業としているのだろうか?と思ったりしてしまった。そして、それらの占い師からは、全く信仰心などというものは感じなかったのだった。
『大祓詞の解釈と信仰 (1962年)』にもこんな風に書かれている。
神様をいただいての道徳は、人が見ておらなくても、神様は見ているというゆき方であります。一人で居ようと誰と居ようと、どこでどんな生活をしようと、自分が正しいと思うことだけしか言わないし、行わない。こういう心がまえを持つことなのであります。
これが、その人がほんとうに信仰に生きているかどうかの分かれ目で、出来ている人であるかどうかは、その人の行い、又は話す言葉一つを聞いてもわかるのであります。
だから昔から神主、僧侶、牧師とか、非常に徳を積んで信仰の深い人の眼を見ると、信仰のほどがすぐにわかる。その眼は非常にやさしい、澄んだ、落着いた眼をしている。こうした人は心がやさしく澄んで落着いているから、それが直ちに眼に現れてくるのです。
「眼は心の窓」とか「眼は口ほどにものを言い」とか言われていますように、すべて心というものは眼に出てくるのです。だから、あの人は悲しそうな眼をしているとか、淋しそうな眼をしているとかと、その人の心の中を推量して申します。
心の持ち方がほんとうに出来てくると、その人の眼は、非常に落ち着いた眼、やさしい目になってくる。商人の眼を見てごらんなさい。キョロキョロしている。一銭でも儲けなければならない。どこかに儲け口はないか。眼を盛んに動かしているのは、その気持ちが眼に現れているのです。やくざの眼を見てごらんなさい。鋭い怖い眼をしているでしょう。みんなその人の性格が眼に出ているのです。
信仰がその人のものになっているか、いないかということは、その人に落着きがあるかないかによってわかってくるのです。これがほんとうに信仰に入っているかどうかを示す一つのしるしであります。
これが親神様の教であります。そして、この親神様がいらっしゃるところが、大祓詞には高天原であると書いてあるのです。
~大祓詞の解釈と信仰 (1962年) より引用
改訂版の『大祓詞の心』では、こういう具体的な記述が下記のようになっていて、バッサリカットされているんですよね。残念なことに。
神様をいただいての道徳は、人が見ていなくても、神さまは見ているという生き方です。一人でいても、誰といても、どこでどんな生活をしようとも、自分が正しいと思う事だけしか言わないし行わない。こういう心構えをもつことです。
この心構えを持つものが、信仰に生きているかどうかの分かれ目です。信仰の深い人の眼を見ると、信仰のほどがすぐにわかります。「眼は心の窓」とか「眼は口ほどにものを言う」と言われるように、心がやさしく澄んで落着いているならば、直ちに眼に現れてきます。
~『大祓詞の心』より引用
私が今日テレビで見た占い師たちは、占いによって人を幸せにしたいという気持ちは微塵も感じなかったし、商人のような眼をしていた。
そして、そういう占い師に占ってみてもらったところで、幸せなんかには決してなれないだろうと思ってしまった訳でございまして。。。
ナンダカ変なもの見ちゃったなぁと思って、家に戻って『永平寺 「104歳の禅師」・「修行の四季」 [DVD]』を再び見る。
そこに映し出された宮崎奕保禅師様のお姿を拝見するだけで、涙が溢れてきた。そして、宮崎 奕保禅師様は、とても優しい眼をしていらっしゃることに、改めて気が付いた。
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