運命というのは決まっているものなのかもしれない、と最近思うようになってきた。
若かりし頃、悩みを抱える度に占って貰っていた時期もあったのだけれども、これが一つも当たっていたためしが無かったので、当たらない占いに一喜一憂するなんてまっぴら、と思っていた時もあった。
しかしながら、先日気まぐれで受けたコンピューター占いの結果に驚愕したり
ネットで自分のホロスコープを調べたりすると、最近の自分を取り巻く流れがどうもその通りに動いているということを実感せざるを得なかったりする。
私がブログに書かないと決めた、とある神社仏閣は、正直東京からは気軽にお伺い出来ないところなので、何でこれほどまでにこちらにお伺いするのだろう?と思ったりもする。
お参りしたいと思った時に、すぐに伺える近くの神社仏閣にご縁があれば、とは思うのだけれども、やはりそちらの神様仏様には滅茶苦茶可愛がっていただいているし、私も大好きだ。
とある人は、そこの神様仏様は好きな人しか呼ばないわよ、と言っていた。
先週末片付けていた際に本棚の奥にしまっていた本を取り出して読んでみた。
天台宗北嶺大行満大阿闍梨である酒井雄哉様の『いつも初心』という本。
私はご縁が無く、酒井大阿闍梨様にお目にかかることは出来なかったのだけれども、御本からはそのお優しさが伝わってきて、お目にかかるだけで気持ちが安らぐお方だったのではないかと思えた。
酒井大阿闍梨様のこの本にも、運命としか思えない神仏とのご縁が描かれているところがあった。
だけどね、不思議なこともあったんだ。昔、子どもの頃、大阪のおばさんが弁天さまがまつられているところへよく行っていたから、僕もそこへちょいちょい遊びに行っていたの。
そしたら、そこへ来ていた一人に、「この子、おかしいよ。一生懸命、須弥壇の上に登ろうとして、爪を立ててるんだ。いずれは、須弥壇の上に登るんじゃないの?」って言われたんだ。
そのとき僕は、「この人、何言ってるんだ?」と思ったんだけれど、その人には、将来僕がお寺に関係することをするのが、わかったんだろうね。
また、こんなこともあったな。僕がお坊さんになる前に、生駒の山に登る途中にある日蓮宗のお寺へ行っていたことがあった。お寺の尼主さんのところへ行くと、お茶を出してくれて、「よく来たね」と言ってくれたんだ。でも、三回目に行ったとき、尼主さんに「あんた、また来たの?」って言われたんだ。
黙っていたら、「あんた、ここに来るような人間じゃないよ。もっと違うところへ行く人間だよ」って。
僕が「はて……?」と戸惑っていると、「まだあんたわかんないの?もうわかってもよさそうな頃だけど」って言ってたんだな。その時もまた、「この人、何言ってるのかな」と思ったけど、後でごちゃごちゃやっているうちに、比叡山に縁があって行くことになって、住職になれるコースに入ってから、その時のことを時々思い出してたんだ。
~『いつも初心』より引用
運命と言うものは決められているものなのかもしれない。
運命という意味を調べてみると
人間の意志を超越して人に幸、不幸を与える力。また、その力によってめぐってくる幸、不幸のめぐりあわせ。運。
と書かれていた。
運命が決められているのだとしたら、無駄に未来を悲観する必要もないということで、安心して、今日を生きていけることに感謝することが必要なのではないかと思った次第でございます。
しかしながら、全て自分の思い通りにしたいと、自分に与えられた運命に感謝もせずに、不平不満ばかり並べていれば、本来のルートから外れてしまい、それこそ運が悪くなってしまうのでしょう。
自戒を込めて。