糺の森入口付近まで戻り、河合神社にお伺いした。
河合神社は美人の神様(玉依姫様)がお祀りされているということで、美しくなれると女子に人気の神社だったりする。
手水で清めて
境内にお邪魔する。
境内に入るとやはり女子に人気の神社ということで、若い女の子だらけだった。
そして拝殿でこちらにお招きいただいたことに感謝してお参りさせていただく。
拝殿左側には貴布祢神社と仁部社が御鎮座されていて、こちらで水の気を強く感じたのは高龗神様の影響もあるのかもしれない、なんて思ってしまった。
そして六社でもお参りさせていただいて
今回河合神社にお伺いして一番印象に残っているところに辿り着いた。
長明の方丈
河合神社は鴨長明ゆかりの社という事でも有名なところでして
賀茂御祖神社の神事を統率する禰宜の鴨長継の次男として京都で生まれた。高松院の愛護を受け、応保元年(1161年)従五位下に叙爵されたが、承安2年(1172年)頃に父・長継が没した後は、後ろ盾を失った。安元元年(1175年)長継の後を継いだ禰宜・鴨祐季と延暦寺との間で土地争いが発生して祐季が失脚したことから、長明は鴨祐兼とその後任を争うが、敗北してしまう。
和歌を俊恵の門下として、琵琶を楽所預の中原有安に学ぶ。歌人として活躍し、歌林苑の会衆として賀茂重保撰の『月詣和歌集』に入撰し、『千載和歌集』にもよみ人知らずとして入集している。以降、石清水宮若宮社歌合、正治後度百首、新宮撰歌合、和歌所撰歌合、三体和歌、俊成卿九十賀宴、元久詩歌合などに出詠し、建仁元年(1201年)8月和歌所寄人に任命された。
元久元年(1204年)かねてより望んでいた河合社(ただすのやしろ)の禰宜の職に欠員が生じたことから、長明は就任を望み後鳥羽院から推挙の内意も得る。しかし、賀茂御祖神社禰宜の鴨祐兼が長男の祐頼を推して強硬に反対したことから、長明の希望は叶わず、神職としての出世の道を閉ざされる。そのため、後鳥羽院のとりなしにも関わらず長明は出家し、東山次いで大原、のちに日野に閑居生活を行った。出家後は蓮胤(れんいん)を名乗ったが、一般には俗名を音読みした鴨長明(ちょうめい)として知られている。建暦元年(1211年)飛鳥井雅経の推挙を受けて、将軍・源実朝の和歌の師として鎌倉にも下向したが、受け入られず失敗している。
建暦2年(1212年)に成立した『方丈記』は和漢混淆文による文芸の祖、日本の三大随筆の一つである。他に同時期に書かれた歌論書の『無名抄』、説話の『発心集』(1216年以前成立)、歌集として『鴨長明集』(養和元年(1181年))といった作品がある。『千載和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に25首が入集している。
~wikiより引用
そしてこちらにある長明の方丈というのは
鴨長明は、五十歳のときすべての公職から身を引き大原に隠とんした。
その後、世の無常と人生のはかなさを随筆として著したのが「方丈記」である。
大原からほうぼう転々として、承元二年(1208)、五十八歳のころに(現在 京都伏見区日野町)落ち着いた。
各地を移動しているあいだに「栖」として仕上げたのが、この「方丈」である。移動に便利なように全て組立式となっている。
と案内版には書かれていた。
この時代にまるで現代のノマドと言われる人々のように、晩年の鴨長明は方丈という簡易的な住居と共に、好きなように歌を詠んだり、琵琶を奏でたりして暮らしていたらしい。
と簡単に書くと、お気楽な人生を送っていたかのように思えるけれども、ここまでに至る心境というのは、やはり紆余曲折を経たからこそ得られたものなのだろうと思ってしまった訳でして。
方丈記の書き出しからして、諸行無常というものがありありと感じられる。
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
仏教的価値観とも思えるその文章を現代の私達が読んでも、少しも色あせて感じることが無いのは、それが真実だからとも言えるし、人間というものは時代がいくら変化しようとも、真実を求める心をいうものが存在するのだろう。
美しいものを見たら、単純に美しいと思える心。
そういうものを感じることが出来るのならば、その人はそれだけで美しい人なのだろう。
美人さんになれるとご利益があると評判の神社で、まさかこんなことを感じるとは思わなかったけれども、生きる上でとても大切なことを教わったような気がした。
外見だけではなく、心も美しくあれ
そんな言葉が頭の中をよぎったのは、玉依姫様のおかげなのかも知れない。
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