本当のご利益を受ける方法~『お地蔵さま』を読んで

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綺麗な文体が好きだ。

本を読むのならば、読んでいて心が洗われるような、そんな文体。

三島由紀夫も好きだし、田中慎弥の文体も結構好きだったりする。

神社仏閣について書かれた本で、久々に文体が美しい、と思った本がこの、伊藤古鑑さんの書かれた『お地蔵さま』という本だった。

2015年5月の旅行後に、高野山の奥之院で多くお見かけしたお地蔵さまにとても魅力を感じて、お地蔵さまというものを知りたくて手にした本だったけれども、読んでいると、日本語というものはこういった美しい言葉だったのだと、改めて認識した文章に触れて、心が洗われるような気持ちに包まれた。

そしてここには、仏様に向かいあう際のとても重要なことが書かれていたりした。

要するにこれらの功徳利益を得るには、こちらからまずお地蔵さまの形像を見て礼拝し、また『地蔵本願経』などにお説きになっていることをよく知って、そのお地蔵さまのご本願をこころから信じ、お地蔵さまの形像にお花をあげたり、お線香、おろうそくを供えて、ていねいにご供養申さなければならないというのであります。

いかに尊い、ありがたいお地蔵さまでも、こちらから真実、信を以て立ち向わねば、ご利益は授かりません。これは前にも申しましたが「能礼所礼性空寂、観応道交難思議」でありまして、礼拝する自分と、礼拝せられるお地蔵さまとが、本性空寂になって、こころとこころと通じ合わねばなりません。

自分が、ほんとうにお地蔵さまのおこころになりきって、無我無心に礼拝いたしますと、そこに感応道交して、不思議にご利益を授けられ、また自分も、それをそのままお受けすることができるというものであります。

すべてが誠心誠意であります。まことのこころでもって、お地蔵さまのおこころを信じ、それになりきることが第一条件であります。ただ一時的に、その場のていさいをつくろって礼拝するようでは、本当のご利益を受けることはできません。

信仰のない人は、霊験は得られません。不思議な活動も出てきません。

ただ単に自己ひとりの微力で、その一生を孤独で、さびしく過ごすというのにすぎないのであります。しかし、信仰のある人は、その信ずるほとけさまとともに、その生活がほとけさまと一体となって、はたらいて行けるのであります。

すなわち、朝はほとけさまとともに起き、昼はほとけさまとともに仕事にこころを打ち込み、夜は、ほとけさまとともに休ませていだたくことが出来るのです。そこには、少しも不平不満がありません。むさぼる、無理や欲は起こりません。また、怒って他人に迷惑をかけるようなこともありません。

ただ純粋な、純一無雑のこころで、めいめいが、仕事に身もこころも、魂までも打ち込んで、一体となって、進んで行けるというものであります。

古徳の口伝に云うように、仏の真身は無相無念であります。

大慈大悲のご本誓により、種々なる形をあらわされるので、自分で造った木石の像であると思えば、木石の思いが残る。これは真の仏体であると思えば、真の信仰が起ってくるものであります。

真の信仰が起れば、そこに初めて真のご利益があるものであります。

愚かなる思いで、軽慢の心を起せば、真のご利益は得られません。まことの霊験もそこにはあらわれませんから、その心がけが、たいせつであると『沙石集』には結んで説かれておりますが、かえすがえすも注意すべきことだと、わたくしも思います。

神社仏閣を清める為に、油をかけて回っていた人に逮捕状が出たというニュースを見て、魔に憑かれた人というのは、何でもやるもんだなぁ、と思ったりした。久高島でも昔、聖地セーファーウタキの樹木を何本も無断伐採するという宗教団体がいたということを、このニュースを見て思い出したりした。

自分は何でも出来ると思い上がった人間が世の中で一番、恐ろしいよね。いろんな意味で。


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