『神道の逆襲』は超面白かった

第23回(2001年) サントリー学芸賞・思想・歴史部門受賞という『神道の逆襲 (講談社現代新書)』を読みました。

萩原朔太郎氏の『猫町』を神との直接の出会いの体験の物語として読み解き、この作品を引用しつつ、神がじかにあらわれる世界を論じます。その世界は、不気味で恐ろしい世界でもあり、異様に魅惑のあふれた世界でもあるとし、そして、風景の裏側をかいま見る経験のありようの中にこそ、日本の神を考えていく最初の手がかりがあると述べています。

(ちなみにこの『猫町』村上春樹氏の『1Q84』に出てくる「猫の町」にそっくりですね、って村上春樹氏がオマージュしたってことなのかしら?)

そしてこの『猫町』で述べられている、反転、再配転の経験が、神を祭ることの原型と成しているとし、さまざまな神道の教説を読み解いていくという構成になっています。

残しておきたいセンテンスをφ(..)メモメモ

神の国ということの根底には、このような神と人とのある緊張した関係のありようがふまえられている。神は無条件に擁護してくれるわけではないし、神国は単純に神聖な国家ということを意味しているのでもない。神を祭ることの内にある緊張は、ときに天皇の崩御という畏るべき結果をも可能性としてはらんでいるのである。

このように、神国という言葉は、日本という国の神聖性や優越性を直接それとして言いあらわしているものではない。それは、日本という国の微妙な内部構造、すなわち神と人との独特な緊張関係において統一の成り立っている特殊な国情を、第一義的にはあらわしている。

神であるということを直ちに神聖なもの、優れたもののイメージに置き換えてしまうのは、日本の神のもつ奇(くす)しく異(あや)しい、底知れぬ豊かな奥行きを、痩せ枯れた抽象へとすり替えてしまうことになる。繰り返しいうように、日本の神は、真にして善なる超越者などという単純なものでは決してない。

神国イコール他国に対する優越という理解は、神を道徳的な善なるものにみなそうとする近世・近代的な先入見が強く作用しているといわざるをえないのである。

親房にとって、神を尊ぶということは何気ない日常の尊さを知ることと同義なのである。働き、食べ、紡ぎ、着る、そうした当たり前の生の営みが「人倫の大本」とひて何よりも大切にされ、保たれている国、これこそがつまらないことのようだが(「賤しきに似たれども」)神の国の真の姿なのである。だからもし、神国の概念が他国を優越を含意しているとすれば、それはまさに人倫日用の当たり前が実現している素朴で平和な国としての優位性以外の何物でもないということができるのである。

「神国日本」の章から、抜粋しただけでも、目から鱗が落ちるような新たな発見が沢山ありました。

他にもメモっておきたいセンテンスは沢山あったのですが、読書しながらポストイットを貼ったら大変な数になってしまったので断念。

この本のタイトルが『神道の逆襲』なんて軽いタイトルだったので(←失礼)、もっとお気軽な神道本かと思っていたけれど、ところがどっこい、神道の事を知るにはとても良い本だと思いました。この本に載っていた文献や人物についても調べようと思います。

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