先日3日間断食をした。
断食中は時間が沢山あったので、本ばかり読み、断食や不食に関する本も多く読んだのだけれども、一番為になったのは、断食終了後に読んだ『修道院の断食』という本だった。
これは、ベルンハルト・ミュラーというドイツの42歳の雑誌編集長が修道院で7日間の断食修行にチャレンジするという触れ込みの本だったので、断食体験記?などと思いながら読み進めていったところ、「断食」という行為は、体重が何キロ減るとか、病気が改善されるとか、そういった己の「欲」を満たすためだけのものではなく、もっと精神的に深いところに響く事だという事を知った。
気になった文章をピックアップ。
断食神話
断食を体験した者は、深く物事を考えることを学ぶ。心の耳を傾けることを学び、分かち合うことを学ぶ。それは自己の感情を再発見する度でもあり、自分にとって本当に大切な何かを発見する旅でもある。そのとき私たちは最終的に、自己を超えて光へ、神へ、存在するすべてのものの根源へと向かう道をたどることになる。その根源がなければ、私たちは誰も本当に充実した人生を送ることはできないのだから。
理想と現実について
つまり禁欲は、いつの時代も厳格に守られていたわけではなかったということだ。例えば有名なパリのサンジェルマン・デ・プレ修道院では、千年前、ごく普通の修行士は一日約7,000キロカロリーを飲み食いしていたという。
~中略~
中世の修道士の食の歴史は、むしろ良心の呵責の歴史といってよい。そして精神的堕落には、つねにその悪しき結果が伴う。もはや祈りも断食もしない修道院は「死んだ修道院」であり、その住人はえてして、もう目も当てられぬような、修道士の風刺画のような堕落した姿になりがちだった。
断食の正しい準備と、その際に注意すべき事柄
断食しようと思う人はまず、なぜ自分が断食したいかのかをはっきりと自覚しなければならない。その場合、体重を落とすことが第一にくるべきではない。キリスト教でいう「断食」では、断食の主眼はむしろ全身の新陳代謝の活性化と、そして心と魂の活性化にある。
断食を愛と結び付けるもの
清貧と節制を守って生活している年老いた修道士の話を聞かせてくれた。その修道士のもとに、ある若い男が何ももっていない手を差し出していったという。
「私は手に何ももたずにやってきました」
修道士は眉をひそませていった。
「その『何も』を置いてからきなさい」
「ただ他人によく思われようと断食する人は、結局よい効果を経験することはありません」
体の断食は精神の断食と必ず結びついている。つまり悪い考えや誇りや権力欲や自己顕示欲を捨てることと結びついている。
健康な体と安定した心
修道士たちはおっしゃる。
「神様がされるがままに身をゆだねなさい。そうすればご自身でもお分かりになるでしょう。私は自分の体が好きだから、この体と仲良く暮らしてゆくつもりです。私は体に何かよいことをしたいので断食をするのです」
キリスト教の教義に基づいたメンタル面の強調が多い本だけれども、きちんと断食の準備の方法や断食後の食事などについても書かれているので、これを読んでおけば、先日行った断食も、より一層効果的になったかも。
ちなみに私は復食後にコンソメスープを飲んだら体がむくんでしまい、焦りながらもこの本を読んでいたら「断食後の最初の食事に塩を使う人は、すぐに体重が1キロ増えてしまう」とこの本に書かれていたのを読んで、本当に断食前に読めばよかったと後悔したのでした(笑)