訣別の時

一度信じきったものに対しおかしいと思われることが浮上してきた際、再度冷静に考察したとしても、信じることを辞めるということはなかなか難しい。これは辞めた方が良いのでは?と頭では分かっていながらも、自身のエゴや人間関係のしがらみ、そして見栄からなどで抜け出せないものもある。

この旅の2日目は午前中、関西のとあるいつものところに行ってきた。

数年前に偶然見つけてその素晴らしさに感動し、それ以来時間があればお伺いしていた場所でもあり、いろいろ奉納等もさせていただいたところでもある。

ただ今回でこちらでのお参りを終わらせていただくことにした。

お参りに行くとこの日は何故か私が知っている人が誰一人として居なく、私を知っている関係者に余計な詮索をされずに最後のお参りを行うことができた。

思うところいろいろあり、書いては消したりを繰り返したけれども、結局のところは何も書かない方が良いのだろうと思ったので詳細は書かないけれども、ことの詰まりはこちらで出会った師匠と思っていた人から洗脳のような扱いを受けていたことに気づいた、ということ。

そして師匠と思っていた人物は出会った時には素晴らしい方だと感じていたけれども、その人がここ最近新しく関係が出来た霊能者の先生、という人に出会ってからというもの言動がおかしく感じることが多々あった(自身に某神様が内在していると言われてその気になって、自身がその某神様の化身になったような態度を取り始め、そして高慢になっていった)

結局この師匠と思っていた人とは訣別したけれども、それは同時にこちらへはもうお参り出来ない事を意味していたので(=この場の有力者でもあるため)、最後にひっそりと誰にも言わずにお礼参りに行ったのだった。

これは信じていた神様とのお別れでもあり、日本全国を回って数年かけてやっと巡りあえた神様だと感じていたので、まさかこんな形でお別れの時がくるとは思っていなかった。

寂しい、悲しいという思いと同時に、こちらの神様は私にとってはよくないと思える状況から解放して下さった、というある種の優しさも感じることができた。

見えないものを信じるということは大切だけれども、それは危険を伴うことでもある。人は弱くなると、通常では考えられない程思考能力が低下して、マインドコントロールされやすい状況に陥ってしまう。

見える感じると豪語して、弱っている人たちからいろいろなものを搾取する輩は今だに存在するし、消えることは無いだろう。

メディアやインターネットで人目につくように表立ってやっている輩の方がまだ可愛い部分もあり、本当に怖いのは「本物は表立った場所には出ないから」と言って、見つからないように活動して人々をマインドコントロールしてる輩の方だったりする。

今回、数年がかりで学んだことといえば

素晴らしい神様や仏様がいらっしゃる場所だからと言って、そこに集う人々全てが素晴らしい人々とは限らない、

ということなのだろう。

Webマガジンで南直哉さんの記事を読む

人間は一度信じてしまうと、そこから脱するのは難しい。なぜなら、「信じた自分」を裏切れないからである。それは自分自身の支えを自分で折るに等しく、著しく困難なのである。ましてや組織的な「洗脳」があったのでは、そこから引き戻すことは個人の手に余るだろう

〜考える人 より引用

私も自分が信じていたものから離れると言う行為は、あれだけ信じること(信仰)が大切だと思っていた自分に対する裏切りではないかと自責することもあったけれども、関わることによって苦しめられるものからは例え宗教であれ何であれ、離れた方が良い。

(注)私が通っていたのは新興宗教では無いです(念の為)逆に言えば、新興宗教でないから安心とも言えない訳です。

師匠と思っていた人からは、ふらふらあちこち神社仏閣にお参りに行くなと言われていた。他人に責任転嫁してはいけないとは思うけれども、その言葉は私の奥底に横たわり、いろいろな神社仏閣に行ってもある種の罪悪感を感じて心底感動することを自ら禁じているような状況だった。

けれども今回今まで信じていた人との訣別、そして久々に伊勢に行ったことで自分の中に喜びの感情があることを思い返せた。

まだ見たことのない、触れたことのない景色は沢山あるし、訪れたことの無い神社仏閣もたくさんある。

それぞれの景色を目に焼き付けよう。

そして感動出来る自分を取り戻そう。

*内容が重かったので、昔伊勢神宮で撮った写真を貼りました 🙂

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