浄土院から東塔方面へ戻る。
途中戒壇院へお参りさせていただく。
戒壇院は弘仁13年(822)最澄様が遷化され、その7日後に比叡山独自に大乗菩薩戒を授けることの勅許が下されたことで、大乗戒壇授戒のために建立されたもの。
そして、戒壇院にお参りさせていただいたことで、今回比叡山にお伺いしたことの意味を悟る。
私が間違った道に進みそうになっていた、というのは、原始仏教もとい小乗仏教の教えこそが本物なのではないかと、思ってしまったことだった。
瞑想を学ぼうとして訪れた場所は大乗仏教の教えをことごとく否定するところであった。その団体の偉い長老と呼ばれる人の法話で
●●宗の僧侶で悟った奴などは一人も居ない、
とか
観音様なんかにお願いしても、何も救われない、
とか
若いやつが只管打坐なんかしても何考えているんだか、
とか
神様の声が聞こえるなんて、嘘つきか、病気の人の戯言、
などなど。
最初は、なんかおかしくない?と思いながらその法話とやらを聞いていたけれども、次第にマインドコントロールされるが如く、その団体が発行している多量の書籍を読み、そして他宗を否定する思想に同調し、「自分が信じていたものは間違っていた」と感じてしまったのだった。
最初にその施設を訪れた際に感じた「ここに来ている人たちは、何かに操られているみたいで、生きているカンジが全くしないな」という、その直感を無視した結果でもある訳で。
けれども、そんな思想に陥ってしまった私に、神仏は救いの手を差し伸べてくれた。
それは想像を超える形でメッセージとしてもたらされ、自身の「自分は間違っていた」という思想こそが「間違っていた」ことをお教えいただけた。
本物はご自身の中にあります。
もう15時を過ぎていたので、東塔の諸堂をくまなくお参りするには時間が限られていた。
鐘楼を通り過ぎ
根本中堂へと向かう。
途中、最澄様が小乗の戒律を捨て、大乗戒によることを宣言された、というパネルを見る。
当時、「仏に成れるもの、仏に成れないものを区別する」という説もありましたが、最澄は、「すべての人が仏に成れる」と説く『法華経』に基づいて、日本全土を大乗仏教の国にしていかねばならないとの願いが募り、『法華経』の一乗の精神による人材の養成を目指しました。
~天台宗HPより引用
このパネルを見て、今回、比叡山にお伺いした意味の深さを知ることが出来た。
そして根本中堂へお参りさせていただく。
人の神性・仏性を開花させるもの。
それは、偉い人や、悟った「誰か」に教えてもらう、ということではないということを、今回改めて感じることが出来た。
それこそ、本物は自分自身の中にあることを疑い無く、信じること。
そんなことを比叡山でお教えいただけた。
根本中堂を出て、左側にある宮沢賢治の歌碑。
そして山家学生式の歌碑
国の宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝と為す。
故に古人言わく、径寸十枚、是れ国宝にあらず、一隅を照す、此れ則ち国宝なりと。
古哲また云わく、能く言いて行うこと能わざるは国の師なり、能く行いて言うこと能わざるは国の用なり、能く行い能く言うは国の宝なり。三品の内、唯言うこと能わず、行うこと能わざるを国の賊と為す。
乃ち道心あるの仏子、西には菩薩と称し、東には君子と号す。悪事を己に向え、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり。
南無宗祖根本伝教大師福聚金剛。