善行で光輝かせ~大峯山 龍泉寺にお伺いしました

大峯山 龍泉寺に到着。

平日午後ということもあってか、若しくはたまたまなのか、私がお伺いした際には境内に参拝客の姿は無かった。

鐘楼

この日の天気予報は雨で、午後は雷雨の可能性もあるという事だったにも関わらず、時折小雨がぱらつく程度だった。その雨のおかげで、境内もしっとりとした良い雰囲気に包まれていた。

昔は大峯山龍泉寺も女人禁制の寺だったということで、「是不許入女人」の碑がある。

高野山も比叡山も昔は女人禁制のお山だったけれども、今では入山することが出来る。しかし大峯山は今でも女人禁制の場所があり、様々な論議が行われている。しかしながら、私個人の意見としては、やはり、そういう場所は必要なのだと思う。

久高島の御嶽とかは逆に男子禁制だったりするし。

修験門から入ってしまったので、今一度外に出て、総門から入りなおす。

総門

右側には大峯山第一水行場。

6年前にこちらにお伺いした際には、修験道のお寺、という感想しか持てなかったけれども、今回訪れて、まさしく霊場と呼ぶに相応しい、祈りに満ちた土地だということを感じた。

神聖殿にお伺いする。

神聖殿

役行者神変大菩薩、聖宝理源大師の精霊を泰安しているという。

手水で清め、こちらにお招きいただいたことに感謝してお参りさせていただいた。

6年前にお伺いした時には、理源大師様のお名前すら存じ上げなかった、と思いつつ。

そして再び手水で清め

本堂へと向かう。

本堂

前鬼像、後鬼像にチェックされているような感覚を覚えながら、本堂にお邪魔する。

本堂には御本尊の弥勒菩薩様と、役行者様、弘法大師様、理源大師様、不動明王様がお祀りされていた。

お線香とロウソクを手向けさせていただき、こちらにお招きいただいたことに感謝してお参りさせていただき、そして誰も居なかったので般若心経と唱えさせていただくと、自分の中にあった黒いもの、強いて言うのならば、わだかまりのようなもの、が溶けていくのを感じた。

誰も居なかったのは、今思えば神仏による人払いだったのかも知れない。

本堂を後にして、境内を散策する。

なで石

柴燈護摩道場

龍の口

この清浄な泉は役行者様が発見した泉と伝えられているということで、

龍王橋を渡ると

龍の口に祀られている善女龍王様を見る事が出来る。

こちらで善女龍王様にお会いできたことの喜びと言ったら!

そして遊歩道への案内がある坂を登ると水行場があった。

龍王の滝

龍泉寺の女人解禁に伴い、女性修験者の水行場として建設されたものだという。

そのまま遊歩道に進むと帰れなくなってしまうので、境内に戻り歩いていると孔雀明王様のお姿がありびっくりしてしまった。

そして八大龍王堂に到着。

八大龍王堂

お堂の前に佇むと、ものすごい力を感じた。

こちらにいらっしゃるのが役行者様が大峯一山の総鎮守として祀った八大龍王様であり、また空海さんが高野山開創以前に龍泉寺に止住された際には、この宝前で雨乞の修法を行ったということを考えれば、至極当然な訳でして。

こちらにお招きいただいたことに感謝してお参りいただいた。

最後に納経所で御朱印と、見本を見て購入しなくては、と思った神令暦をいただいた。

その神令暦の中に書かれていた文章に甚く引かれてしまったものだったので。

徳の高い人とは、ただ一方的に他人に尽くすだけの縁の下の力持ちを指すのではありません。自らを高めると同時に、強要することなく他を感化するという精神的能力を持てる人を言います。

その人と居ればなんとなく楽しい、とか、安心感がある、というだけでも一つの人徳と言えるでしょう。

徳を積むというのは、そういう人であるよう自分を高揚することであり、他を良い方に感化することをいうのでしょう。

徳を積むということ。

自分が犠牲になることを、徳を積むということだと誤解していた私としては、本当に目から鱗が落ちる程の衝撃だった。

自らを善行で光輝かせ、その光で周囲をも明るくするということ、それが徳を積むことなのだと。

こういった学びが、修験道の根本道場と言われるお寺で気付くことが出来たということは、決して偶然ではないのだろう。

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