東塔から西塔方面へと歩いて行く。
冬季の比叡山はシャトルバスは運休ということで、横川に行けないということは重々承知していたけれども、自力で歩いて行ける西塔までは何としてもお伺いしたかった。
実際歩いてみると、さほど雪は積もっておらず、これならば行けると思い、そのまま西塔方面に進む。
時折ハイカーの人とすれ違う程度で、ほとんど人の居ない比叡山を歩いていると、その静寂に満ちた空間はまるで次元の違う世界だと思える位、静かな所だった。
そして、その静けさは私を救うものでもあった。
転ばないように注意しながら歩いて行くと、比叡山内で最も清らかだと言われている浄土院が見えてきた。
こちらに再びお招きいただいたことに感謝してお参りさせていただいた。
こちらは比叡山の二大難行といわれている、伝教大師様の生ける魂に十二年お仕えするという修行~十二年参山行が行われているところでもある。
千日回峰行に比べて、とても地味な修行であるが故、あまり一般には知られていないということだけれども、やはりこちらにお伺いするとその清らかさに比例するが如く、この地を日々清め修行されている方がいらっしゃるということをありありと感じることが出来る(十二年参山行にご興味のある方は、十二年参山行満行者でいらっしゃる宮本祖豊様の『覚悟の力』という本をご一読されるとよろしいかと思います)
以前お伺いした際にもとても清らかな所だと感じたけれども、今回は雪に覆われていることもあり、ひときわ浄化の力を強く感じてしまった。
そして浄土院を後にして、再び歩き始める。
雪は止むこと無く降り続いていた。
雪が降り続く中歩いていると、箕淵弁財天の鳥居が目に飛び込んできた。
こちらでも再びお招きいただいたことに感謝してお参りさせていただいた。
そしてにない堂(常行堂・法華堂)に辿り着く。
法華堂には普賢菩薩様、常行堂には阿弥陀如来様がお祀りされ、法華堂は「常坐三昧」(90日間坐禅を続ける行)、常行堂は「常行三昧」(90日間歩行しながら阿弥陀如来をとなえ続ける行)の道場でもある。
内部は非公開なのでこの目で見ることは出来ないのだけれども、やはりこの場所の前に立つと、修行の地だということをありありと感じることが出来た。
そして釈迦堂へと向かう。
途中恵亮堂にもお参りさせていただき
釈迦堂に到着した。
手水で清めて
釈迦堂でこちらにお招きいただいたことに感謝してお参りいただく。
昨年釈迦堂の内陣公開があったということだけれども、結局はお伺いしそびれてしまった。
大講堂で御朱印をいただいた際に対応して下さった方から、釈迦堂内陣公開の際には多くの参拝客で溢れかえっていたというお話を聞いたのだけれども、私には、こういう人の少ない時期でじっくりとお参りさせていただくことの方が良いのだろうと思いながら、釈迦堂を出ると、お日様の光が差し込んできた。
さっきまで雪が降っていたのに、と思いつつ、やはり山の天気は変わりやすいということを実感してしまった訳でして。
と思ったのもつかの間、天候は変わり雪が激しくなっていた。
時折風が吹き、樹々に積もった雪がベールがたなびくが如く、地に舞っていく姿が見えた。
この自然の美しさにしばし見とれてしまった。
雪の華。
雪は止むことなく降り続けていた。
延暦寺会館を出発する際、傘を借りたのだけれども、自身がさしていたその傘にふと眼を向けると、素敵な文言が書かれていた。
雨は雨。
今を楽しむ。
今回の場合は雪だった訳だけれども、せっかく比叡山に来たのに雪だった、と考えることも出来るし、比叡山に来たら幸運にも雪が降っていた、と考えることも出来る。
己が遭遇した出来事を良い事としてと捉えるか、悪いこととして捉えるかも己の心次第だということを、傘に書かれていた文言で改めて実感することが出来た訳でして。
そして再び浄土院方面に戻って行くと、お坊さん達が雪かきをしている姿に遭遇した。
こんにちは、とお声掛けいただき、こんにちは、と返答した。
殆ど参拝客が居ないこんな日でも、雪かきをされている姿に頭が下がる思いで一杯になった。
雪の比叡山は美しいところ。
現代では電気やガスや水道などのインフラも整い、お山と言えどもある程度の快適な生活が出来るのだとは思うのだけれども、そういったインフラも無い時代、先人達はこの論湿寒貧と言われる比叡山で修行を重ねていたことを考えると、想像に絶するものがあったのではないかと思ってしまった訳でして、、、
今の自分自身と言うのは、それこそ生活の糧を得る為に、本意と思えない仕事に就いている訳で、その仕事から生じる悩みというものは自身を苦しめるものでもあったりする。
どうでも良いプライドに満ちた世界から抜け出したいという思いがあったりする一方、そのどうでも良いプライドに満ちた世界に属している自分というものを誇りに思うと同時に嫌悪している部分もあったりする。
なぁなぁにして生きていれば、そのプライドに満ちた世界というものは居心地は善いのだろう。しかしながら、やはり間違っていると思う部分が多々あるが故、悩む訳で、何のために生きているのだろうと思ったりもする。
けれども今回比叡山に来て気付いたことと言えば、何のために生きているのだろう、などと考えず、生かされているからこそ出来ることがあるのではないか、と考えることこそ重要なのではないだろうか、ということ。
そして誰かに評価されることを期待する訳でも無く、自身の信じる道を進むこと。
それこそ、覚悟の力だと。