A FLOWER DOES NOT TALK – 南禅寺方丈にて

南禅会館に戻り、朝食を取った後、開門の時間に合わせて再び南禅寺へ。

南禅会館でいただいた「南禅寺見どころマップ」を片手に、まずは三門方面へと向かう。

三門ぶ向かう参道の左側に句碑。

この門を入れば涼風おのずから

ホトトギス派の俳人としても活躍された森永湛堂老師の句だと言う。

この日も九月にしては暑さを感じる日だったけれども、この句が表しているように、参道を歩いていると、風が吹いて、心地よさを感じることが出来た。

そして三門右側前には、東洋一の大きさの石灯篭があるのだけれども

その大きさも霞んでしまう位の存在感は、やはり三門だったりする。

三門

南禅寺にお伺いするまで、山門の楼上に仏様がいらっしゃるということを知らなかったことを恥じつつも、後ほどお伺いしようと決めて、法堂へと向かう。

法堂

先ほどもお参りさせていただいたけれども、今回もこちらにお招きいただいたことに感謝してお参りさせていただいた。

法堂の上をのぞくと、天井には龍。

その龍の力強さに、しばし見入ってしまった。

そして南禅寺と言えば有名な景色である、水路閣方面へ向かうと、早朝ということもあってか、殆ど人が居なくって、思わずシャッターを切りまくってしまった(笑)

そして方丈に到着。

方丈

朝早い時間ということもあって、拝観している人の姿は殆ど無く、方丈の中に入るとお坊さん達がせわしなく歩く姿を目にすると同時に、私の姿を見かけるとご挨拶して下さることに恐縮してしまった。

昔は、お寺のお庭など見ても、ただ単に綺麗だな、としか感じることが出来なかったけれども

今はその配置や構図から、そのお庭に込められた意図の様なものをひしひしと感じることが出来る。

これも歳を取った、ということなのかも知れないけれど、ただお庭を眺めているだけで、宇宙のようなものを感じてしまう。

その有り様を見て、どう感じるのかは、全て見ている側に委ねられている。

人生というのも、起きている現象を、どう感じるのかは、それぞれ、受け手次第。

そんなことを思いながら、庭園を眺めていた。

そして、ご自由にお取り下さい、と書かれていた紙を手に取ると、表面には日本語、裏面には英語で書かれた 柴山全慶禅師様のお言葉があった。

花語らず

花は黙って咲き、黙って散ってゆく

そうして再び枝に帰らない

けれども

その一時一処(いちじいっしょ)に

この世のすべてを托している

一輪の花の声であり

一枝の花の真である

永遠にほろびぬ生命のよろこびが

悔いなくそこに輝いている

南禅 柴山全慶

これを見た時に、やはり私が尊敬して止まない宮崎禅師様のお言葉と通じるものがあると感じてしまった。

何かをすれば、何かの報酬を得られるが為に行う行為。

そこに、美しさというものはあるのだろうか?と。

黙って行うべきことを行い、そして、その役目が終わったら、誰に褒められることもなく、静かにその場を去って行く、それが自然であるということ。

この紙を読んで、その大切な教えを日常の忙しさやフラストレーションにまみれて忘れて切っていた自分自身に、喝を入れられたような気分になった。

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