善神も悪神も畏れ敬うべし

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photo credit: P9220358 via photopin (license)

東京は久々のお天気ということで、今日は一日掃除と部屋の整理整頓をしていた。

以前断捨離したつもりだったけれども、どうでも良い本がワラワラと出てきた。いわゆるスピリチュアル的な本も紛れていたので、ちょっと読んでみたけれども、今読むと、凄く違和感を感じた。

海外の神様の定義と、日本の神様の定義というものが、根底から違うからだとは思うけれども、やっぱり海外から輸入されてきたスピリチュアル的な発想というのは、私は好きになれないのだったりする。

天使が全て救ってくれるとか、想いが現実を創造しているとか、ね。

とある海外翻訳本のスピ本には、人は困ったことがあるとお寺などの宗教施設に行く、と書かれていたけれども、これも海外の人の発想なんだろうな、と思った。感謝を捧げに神社仏閣に行く人々が居るなんて想像もつかないんだろう。

まぁ、信じることは人それぞれなので、それが間違っているとか言うつもりはさらさら無いけれども、甘い言葉だけささやく人々には要注意と自分自身は肝に命じている。

本居宣長先生の本を改めて読んでいるけれども、そこには出雲大社の記述が書かれていた。

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善神も悪神も畏れ敬うべし

ところでかの大国主の命と申すのは出雲の大社の御神であり、はじめにこの天下を経営され、八百万の神々を率いて、右の御約束の通りに世の中の幽事(かみごと)を御担当になって処理なさる御神でいらっしゃるのだから、天下の人が上下問わず恐れ敬い尊奉し申し上げなければならない御神なのである。

総じて世の中のことは神の御霊でなくてはどうにもならない物なのだから、明けても暮れてもこの御恩恵を忘れず、天下国家のためにも、各自の身のためにも、多くの神を祭ることは肝要の行いである。善神を祭って幸せを祈るのはもちろんのこと、また災いを免れるために荒ぶる神を祭ってなだめるのも古(いにしえ)の道である。

それなのに「人の吉凶・禍福は各自の心の邪正や行いの善悪による事なのに、神に祈るのは愚かである。神がどうして聞いてくれようか」といような事を言うのは儒者のいつもの論であるが、このように自分の理屈ばかりを全面に出して神事をおろそかにするのは、例の小賢しい唐戎(とうじゅう)の見識であって、神には邪神もいて、非道な災いもあるという道理をしらないための誤りである。

改訂版 玉くしげ – 美しい国のための提言(現代語訳 本居宣長選集 第1巻)より引用

本居先生は儒教を批判されていたけれども、今の時代に置き換えると、いわゆる引き寄せの法則とか、そういうものが該当するんではないかと思ってしまう。

引き寄せの法則などでは、善いことを思えば善いことが起こる、なんてまことしやかに言われているけれども、そんなに単純じゃないのが世の中だったりする。

ってこんなことを書くと「お前がそう思っているから、そういう世界が創造されるんだ」という反論が聞こえてきそうだけれども、こういうのってニセ科学と同じように「信じていないから効果が出ないんだ」と言っているのと同じだと思うので、まぁ、そう思う人は、そう思ってもらって結構です。

スピリチュアルな人々は、さかんに光を求めるけれども、光だけでこの世界は成り立っていないように、闇も必要だったりする。

闇を知ってからこその、光、なんではないかと、どうでも良いスピ本の数々を流し読みして思った次第でございます。

良い神様だけで、この世が成り立っていないようにね。

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