神社通いを始めた頃、神道についてよく分からなかった事が多かったので(←未だにそうだけれどー爆)、出かけた先で神道関連の本があれば、手当たり次第に買っていた時に手に入れた一冊が、この『大祓詞の解釈と信仰』(これは神宮会館で購入)
先月石上神宮と春日大社で朝のお勤めに参加させて頂き、大祓詞を唱えてからというもの、毎朝自宅でも神棚の前で大祓詞を唱えるようになった。けれども意味が分からずに唱えるのも、と思い、この本を引っ張り出して読み直してみた。
大祓詞を唱えるようになってからこの本を読むと、そういう意味だったのか、と腑に落ちることが多く、例えば「焼鎌の敏鎌」というのは
「彼方の繁木が本を 焼鎌の敏鎌以ちて 打ち掃ふ事の如く」とは、向こうの方の繁った木を、焼きを入れた敏鎌で打ち掃うことですが、人にはいろいろの問題が沢山ある。その問題(繁木)で行く先が見えないのを、焼きの入ったするどい鎌、即ちするどい知識、叡智を持って、打ち掃って初めて、行く手が見えて来る。焼鎌の敏鎌で打ち掃うとは、言葉を換えて言えば、正しい神心に叶った、知と行の一致した行動による祓だと言って良い。ほんとの修行をし、神様のお言葉通り実行して行く事により、段々清められ、「遺る罪は在らじ」という状態が出て来るのであります。
先に述べた伊勢の一切成就祓詞に「極めて汚きことも滞なければ穢はあらじ」というのはこの心境を言ったもので、この詞は大祓の言葉をまことによく要約したものだと言えます。滞をなくした時、はじめてきれいになるという自覚なのです。
~大祓詞の解釈と信仰 p69より引用
ということで、この詞自体にこれだけの意味があり、その他の詞についても深く説明されている。
大祓詞を読み上げる意味についても書かれていた。
読み上げる意味は、自分をいっそうきれいなものに、いっそう正しいものに、いっそうましめなものにしなければならないという考え方が、その根底にあるから、それをやらない訳にいかないのであります。この大祓の詞は非常に美しく、且つ壮重にできております。ですから気持ちよく唱えられる。この気持よく唱えられるということだけでも、私は大祓を上げる意味があると思うのです。しかしそれと共に大祓の詞の中にどんな深い意味があるのか。よく考えてみること、これも大切なことであります。
~大祓詞の解釈と信仰 p90より引用
確かに朝、大祓詞を唱えると、それまでイロイロ考えていた雑念が消えていくし、ヘンなアファメーションなんかより、唱えているだけで気分が良くなる。それだけでもこの「大祓詞」の言葉の力というものを実感できる。
ちなみにこの本、アマゾンで値段を調べたら、中古品で¥9,500という恐ろしい値段が付いていたけれど、セブンネットショッピングだと、税込¥650という通常価格で販売されていますヨ。