先週富岡八幡宮と深川不動尊にお伺いした後、本屋さんに立ち寄った。
世間では某有名作家の新作が発売されたばかりということで、お店の入口には山積み状態になっていたけれども、実物を手にしても何も感じるものが無かったので、その本は購入せずに、本屋さん内をプラプラしていたら、一冊の本が目に留まった。
その本は『蔦重の教え』という本で、帯には
おめえに教えてやるよ。
人生の勘どころってやつを。
江戸時代に一世を風靡した破天荒プロデューサーから生き方と商売の極意を学ぶ、時空を超えた実用エンタテイメント小説!
と書かれていた。
富岡八幡宮などにお伺いした後ということもあって、江戸時代にタイムスリップしたような気分だったこともあり、ちょっと読んでみようかしらん?と気軽な気持ちで購入した本だった。
けれども、この本がとても面白かった&為になったので、忘備録としてブログに感想なぞ。
出版社の内容説明から引用すると
55歳、依願退職願いを強要された人生がけっぷちのサラリーマン、武村竹男(タケ)がタイムスリップした先で出会ったのは、「写楽」や「歌麿」を生み育てた江戸時代の超やり手プロデューサー、蔦屋重三郎(蔦重)だった!
23歳の青年に若返った状態で蔦重に拾われたタケは、時代の寵児となる画家たちと親交を重ねながら、商売と人としての生き方の極意を学んでいく―――。
~飛鳥新社 『蔦重の教え』内容説明 より引用
という、設定としてはなかなか面白いものだったりする。
実際読み始めてると、面白さのあまり最後まで読み切ってしまったくらいだった(笑)
そして、この本の中には、巷の自己啓発本では大っぴらに語られてはいない、裏の処世術のようなものがそこらにちりばめられていた。
例えばこんな教訓。
気の合わない人間ほど丁寧に接する
「それよりもほら、蔦重がことさら丁寧に接する方々をよくご覧になり、覚えるようにしてくださいませ。よほどの大人物か、気の合わない方なのでございますよ」
「え?」
(口腹別男ってわけか。ちょっとがっかりだな……)
「どうしてですか?気が合わないのなら、ビジネスライクに……じゃなくて、普通に接していればよいではないですか?なにも無理に媚びなくても……」
「いえ、決して媚びているわけではありません。気心が知れないからこそ、用心されているのでございます。相手の気に沿わぬことをして、隙や借りを作りたくないというのが一つ。また、必要以上に丁寧に接していれば、敵視されることも、今以上に親密になることもなくて済みます。つまり『他人行儀』という幕を張って、相手との距離を保つのでございます」
~中略~
「さらにもう一つ、大きな理由があります。接待名人の蔦重と気が合わないということは、何かしら癖のある相手であることが多うございます。そういう方は、たとえ本人はどうあれ、思わぬ大人物とつながっている可能性が高いと考えられます。枝の先に果実あり。事実蔦重を狂歌の会に紹介してくれたのも、私を蔦重に会わせてくれたのも、そういう方たちでございました」
「なるほど。苦手だからと適当にあしらっていては、こういう機会も持てなかったというわけですね」
「さようでございます」
~蔦重の教え より引用
この教えは、私は見にしみて最近実感している訳でございまして。。。
本当に頭の切れる(=地頭の良い)人々というのは、人の扱い方がとても上手だと思う。
私が今、縁があってお仕事させていただいているところは、本当に地頭の良い人々ばかりなので、働いているだけでも日々学ぶことが多いのだけれども、そんな人々は、人を注意する時にも、感情に任せて怒鳴ったりすることを決してしない。
彼らは自身が起こした行動がどうなるかという先手をいつも読んでいる。それに、相手を自分の意のままに行動させるにはどうすれば良いのか?ということを熟知している。
己の一瞬の感情に任せて発言するといった行動を起こした際に生じるリスクを十分承知しているが故に、決して声を荒げて注意するといった、子供じみた行動は一切取らない。
逆に、その分恐ろしい場所に身を置いているのだと、最近薄々とは感じている(爆)
誰にでも優しく見える人ほど、実際には注意が必要だったりするんですよ。。。
「あがり」を定めて人生を逆算し、梯子をかける
「蔦重さん。初めて会った日、あなたは私に、人生を逆算すれば、今より確実にマシな人生になる、とおっしゃいましたよね?」
「ああ。言ったが、それがどうした?」
「あれからずっと考えているのですが、まだ答えが出ません。いったいどういうことなのでしょうか?」
私が首をかしげると、蔦重はやれやれといった感じで、人差し指を湯のみに入った酒に浸し、お盆の上に何やら書き始めた。
「いいか。まずはてめえがいずれこうなりたい、ってぇ人生のてっぺんを思い描くんだ。双六で言う『あがり』ってやつだ」
~中略~
「てめえの信じる神仏に向かって、『いついつまでにこれをします。約束は必ず守りますから見ててくだせえ』って誓ってもいいし、てめえ自身と約束するんでもいい。そうやって生きてりゃあ、二度とお稲荷さんに小便引っ掛けるような、罰当たりな人間にゃあならねえよ。……この『梯子あがり』ができねえってんなら、そもそも『こうなりたい』なんて思わなきゃいい。その代わり、一生てめえの身内にも会えないまま、この時代でのたれ死にするしかねえだろうがな」
「う……」
蔦重の言う通り、私は罰が当たってこの時代に落とされたのだろうから、お稲荷さんの怒りを解かないと、元の世界に戻ることなどできないだろう。
「ま、早ぇとこ腹をくくるんだな。ぐずぐずしてっと、神輿が上がらねえぞ」
~蔦重の教え より引用
引き寄せの法則とやらは、この梯子あがりの状態を想像して、実際に起こったかのように感じていれば、その梯子あがりの状態が現実として現れるという。
けれども、実際にはその梯子を自力であがって行かなくては、何時まで経っても梯子の下に居る状態で、梯子のあがりの景色は見えない。
ここにはその梯子をあがる具体的な方法が書かれていたけれども、まさしくその通りなのだと思えて仕方がなかった。
神仏に願う方法もまさしくこの通りだと感じた訳でして、神社仏閣にお伺いして、何の行動も起こさずに●●にしてくださいーと我欲を押し付けるだけその願いは、決して叶わない。
その願いを叶えるために、自分は具体的にこれこれこうします、なので見守ってくださいとお伝えすることが、本来の神社仏閣への参拝方法なのではないだとうかと思ってしまった。
そしてこの本で一番印象に残ったのがこの文章だった。
物や場所にも挨拶する
「挨拶ってのはよ、人にだけすりゃいいってもんじゃねえぜ。出かける時の『行ってきます』も、帰って来た時の『ただいま戻りました』も、余所へ行った時の『お世話になります』も、家や土地にもきっちり礼を尽くさなきゃな。おかげさんで俺たちは生かされてんだからよ」
~中略~
江戸の人々は、しばしば『今日様(こんにちさま)』という言葉を使う、
朝起きるとまず、お天道様に向かって『今日様、今日もよろしくお願いします』と拝み、『生きていられるのは今日様のおかげだよ』と諭し、寝起きの悪い小僧には、『今日様に申し訳ないよ』と小言を言う。
また、『おかげさま』という言葉も、平成の世では「ありがとう」につける接頭語か枕詞のように無意識に使われているが、この時代はもっとずっと深い意味を持つ。
『おかげさま』は漢字で書くと『お蔭様』となる。
『お前はお蔭様に生かされているんだよ』と母は子に伝え、何かいいことがあると『お陰様に感謝しなさい』と言われる。
最初のうちは『お蔭様』はいわば、陰ながらその人を見守ってくれている守護神のような、単体のイメージかと思っていたが、しばらく暮らすうち、もっとずっと大きな意味を持つことに気付いた。
お蔭様とは、人を生かしてくれている全ての自然エネルギーや事象――人の恩を含める森羅万象を表す、象徴的な言葉だと理解した。
日本には古代から、『八百万の神々』という信仰がある。
お天道様を始め、火や水や米など、万物に神様が宿っているという多神論だが、『お蔭様』に感謝するということは、目の前にいる人だけではなく、その人を形成した親や先祖、八百万の神々に感謝するということで、『今日様』に感謝するということは、この瞬間から始まる未来に感謝するということだ。
『お蔭様』と『今日様』。
これらは、現代に生きる日本人が一番なくしてしまった感覚ではないだろうか。
~蔦重の教え より引用
感想
小説の結末も良い感じに収まるので、単純に読み物としても面白い本でしたが、エンターテイメント性の高いその内容の中にちりばめられている数々の言葉が、まるで至宝のように感じてしまいました。
富岡八幡宮などにお伺いした気分そのままのノリで購入した本だったけれども、逆に富岡八幡宮などにお伺いしていなかったら読んでいなかったと思うと、こういう本に巡り合うことが出来たのも、神様仏様のお導きなのかも知れないと思う次第なのでございました。
本当、人生って面白い。