ネットで都内の神社について調べていたら、東京の港区にある愛宕神社のご利益がすごいみたいです。例えば、 就活していても、全く手ごたえのない状態だったので、愛宕神社に参拝したところ、その後はトントン拍子に就職が決まった、など(詳細は発言小町をご覧ください!)と書かれてあったのを読んで、そういえばここら辺の神社ってノーマークだったわ、と気づき、行ってきました。愛宕神社。
愛宕神社
愛宕神社について調べてみたら
愛宕神社は江戸城下の火伏せの神として、城下を見下ろせる場所に設けられた。現在も火災除けの御守りとして鎮火の護符がある。また家康が戦勝・出世を祈願したとされ、合格祈願の参拝者も多い。
~東京ご利益散歩ガイドより引用
という事で、家康が戦勝・出世を祈願したところならば、ご利益アリアリなのも納得。
御祭神は以下の通りです。
●主祭神
火産霊命(ほむすびのみこと)〈火の神〉
●配祀
罔象女命(みずはのめのみこと)〈水の神〉
大山祇命(おおやまづみのみこと)〈山の神〉
日本武尊(やまとたけるのみこと)〈武徳の神〉
●境内末社
太郎坊神社、福寿稲荷神社、弁財天舎、恵比寿大黒社
さて、お参りですが、近くの駅から歩いていたら、参道と書かれていたものを発見したけれど、こちらから入るのではなく
そのまま進むと、愛宕神社の石碑が見えてきます。
鳥居を潜るとそこには、愛宕神社名物(?)出世の石段があります。ここを駆け抜けなければ意味が無いのです。
出世の石段
まずは狛犬さんたちに挨拶
下から見ると、そんなに段数あるようには見えないのですが
一段一段が高くて、一気に登るのは大変でした~。けれども出世の石段を登っているのに、途中で休んでなるものか、と駆け上りましたよ(笑)室生寺の奥の院に行った時よりは全然ラクでしたけど。
石段を登り切ったところ
と、写真なんか撮ってますけど、本当は息も絶え絶えで(爆)
ちなみにこの出世の石段は、曲垣平九郎と言う人を有名にした場所としても知られていて
3代将軍家光が芝増上寺に父・徳川秀忠の墓参りに出かけた帰りに愛宕山の前を通りかかり、山上に梅の花を見つけて命じました。
「誰か馬で階段を駆け上り、あの梅の枝を手折(たお)ってまいれ」
これに見事に応えたのが丸亀藩の曲垣平九郎(まがき・へいくろう)です。平九郎は家光から大いに賞賛されて面目をほどこしたと伝えられています。
~港区ゆかりの人物データベースより引用
この出来事によって、出世の石段と言われているそうです。
手水舎
こちらの龍もカッコイイ
丹塗りの門
招き石
この石をなでると福が身につくそうです。
社殿
現在(2014年3月6日)御本社の屋根銅板葺き替え工事中でした。
参拝させて頂き、右手末社へ。
太郎坊社
猿田彦さまが祀られているそうです。
福寿稲荷社
と、ここで猫さん発見。
写真撮らせて~とお願いしたら、まず撫でろ、とばかりに近寄ってきたので、思いっきりナデナデしてしまった♡
背中を撫でる図
正面から一枚、とお願いしたところ、こんな写真(笑)
そして社務所で「出世の石段・金箔御守」なる御守りを発見したので、これは今の私には絶対必要と思って頂いた(初穂料¥1,500)御朱印を頂こうとしたところ、今御朱印を書ける人が不在という事だったので、また次回ということにしておいた。ちなみに愛宕神社の御朱印帳が、出世の石段をモチーフにした独特のものだったので、ちょっと欲しくなったけれど我慢した(笑)
鯉も沢山居た。
池には弁財天社もあるけれど、石さんも祀られてた。HP等見ても詳細不明。。。
弁財天社
梅軍將
そして観光地にはお決まりの顔抜き看板が(爆)
馬の役はやりたくないわーと思いつつ。
昔、この地に「児盤水(または小判水)」(こばんすい)という霊験あらたかな名水があり、平将門の乱の鎮圧に向かう源経基がこの水で水垢離をして神の加護を祈願し、乱を鎮めたという話も伝わっているそうです。
そして今度は出世の石段(男坂)ではなく、女坂を下ることにした。
老舗の中華料理屋さんが神社脇(女坂をあがったところ)にあった。けれどまだ営業していないようだった。外から見ても良さげな雰囲気のお店だった。
そして女坂を下っていく。
愛宕神社を後にして、天気も良かったのでそのまま歩いていたら観音様発見。
近くに道元禅師のお言葉があったので、曹洞宗のお寺かな?と。
こちらは青松寺(せいしょうじ)というお寺で、山門が立派だった。
仁王像がまるで生きているように感じた。
特にこのお二人
誰も居なかったので、入って良いのか分からなかった為、山門だけ見学させて頂いた。家に戻ってネットで調べてみたら、入ってみても大丈夫だったようで。今度ちゃんとお参りさせて頂きたいなーと思いました。
そしてテクテク歩いていると、
有章院霊廟・二天門
あまりの迫力に見入ってしまった。
ちなみに有章院霊廟・二天門というのは
7代将軍徳川家継の有章院霊廟における第一門。増上寺山内北廟に属し、6代将軍家宣の文昭院霊廟の北川に並ぶように配置されていました。8代将軍吉宗(有徳院)以降は霊廟を造営せず、各霊廟に合祀して奥院のみを造営するという縮小したものでした。よって、有章院霊廟は、江戸初期から中期にかけて全盛期を誇った徳川家霊廟建築の最後の遺構と言えます。戦災で焼失した文昭二天門や台徳院惣門に比較すると屋根や部材形状は簡潔な造形が用いられていました。霊廟建築が収束へと向かう時代性をうかがわせます。
~港区ゆかりの人物データベースより引用
こういうものが、都会のど真ん中にあるとは思わなかったので、本当にびっくりしてしまったのでした。
とこの門の後ろには東京タワー
そして吸い寄せられるように、そのまま増上寺へと歩いて行ったのでした。