返礼無き御利益信仰は時としては自らを滅ぼす~信貴山玉蔵院

空鉢護法堂を後にして向かった先は信貴山玉蔵院。

境内には私の好きな神仏が沢山いらっしゃり

前回も書いたけれども、今信奉している神様がいらっしゃらなければ、信貴山に通いたいと思える程に魅力的な神仏が沢山御鎮座されていた。

まぁそれは許されないのだけれども。

沢山の神社仏閣にお参りすること、そして多くの神社仏閣でお守りを受けることは良いのか悪いのか、といったことが時々話題にのぼるけれども、それは状況次第としか言いようがなく、例えば挨拶程度に参拝した神仏は、あなたが挨拶程度にしか思っていないのだから、神仏の方もさほどあなたの事は気にも留めないでしょう。

逆にもうあなた様にすがるしかございません、この願いを叶えてくださいと神仏に誠心誠意に願ったとしたならば、その姿を信じて神仏が願いを叶えてあげたのにも関わらず、その後に御礼もせず、感謝や誠意も見せずにいたのだとすれば、その報いは何かしらの形で起こるわけでして。

返礼無き御利益信仰は時としては自らを滅ぼすのです。

玉蔵院には、お祀りすることの難しさは聖天様と双璧を成す秘仏とされる双身毘沙門天が御鎮座されている。

今回ただひたすらにこちらで参拝させていただけた機会に感謝してお参りさせていただいた。

そして、こちらをお参りさせていただいた際に、ふと昔読んだ本について思い出した。

天部は道ならぬ希望やあくどい稼ぎを考えても、修法さえすればいうことを聞いてくれるというのは大きな間違いである。もし自らの修法をそういう祈願で叶うというなら、それは魔がはいっているのであり、警戒しなくてはいけない。正しく祈っておれば、そういうあくどい稼ぎのものは、すべて取り上げられてしまうくらいのことが必ず起こるはずである。

~『天部信仰読本』より引用

信貴山は素晴らしいところだと思うけれども、やはり天部の神々は中途半端な気持ちでお参りしてはいけないと思うので、一生付き合う位の覚悟が無ければ、自らの願意は述べずにご挨拶程度に済ませておくのがいいのかなと。

あくまでも個人の主観なので、お気になさらないでくださいませ。

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