求めなければ何も降りてこない

いつものところにお伺いする為の、関西への旅だった。

いつも前日へ関西入りするのを利用して、御縁を感じた神社仏閣へお伺いするのが常だったけれども、今回は何処かへ行こうとする気力が湧かない程疲れ切っていた。

この旅事体、行くのをためらう位に疲れていたけれども、やはりいつものところへのお参りはしなくてはならないということで、疲れた体を引きずって新幹線に乗った。

このまま京都に到着したら、ホテルに交渉して早めにチェックインさせてもらって寝ていようと思っていたけれども、新幹線の席に座り、うつらうつらしていたら、何故か信貴山というキーワードが浮かび上がった。

何故なのかと思いながらスマホで信貴山について調べてみても、京都からは2時間程かかる場所だし、行ったとしても少ししか滞在出来ないから、現実的ではないと思った。

しかし、京都駅に到着した時には信貴山へ向かう自分が居た。

事前の信貴山の知識は全く無いと言って等しいものだった。

毘沙門天様がいらっしゃる、大きな虎の張り子があるお寺といったイメージしかなかった。

けれども、今回事前に計画もしていなかったのにこちらにお伺い出来たということは、目に見えない存在の取り計らいのようなものだと思えて仕方がない程、それはそれは素晴らしいところだった。

事前知識が無いまま、バスを降りると白虎の姿が目に入り

どこをどうやって行けば良いのか分からないまま歩くと、仁王門に到着した。

そのまま歩みを進めると

猪上神社という神社があったので、お参りさせていただく。

生きる時間というものは限られており、その限られた時間の中で何をするのかというのが「生きる」ということなのだろう。

予備知識も何もなくお参りさせていただいたお社で過ごした時間は、神仏にお参りさせていただくということ、それが私が生きている間に自分の時間を使いたいということを確認させていただくことが出来た。

それにしても、信貴山の知識が全く無かったので、信貴山がどのくらいの広さなのかと言う事も把握していなかったので、観光案内図を見てこちらの広さに驚いた位だった。

今回、何故信貴山にお伺いすることになったのかは、正直に言って良く分からない。

ただ、私が置かれている状況を見かねた存在が、こちらにお伺いするように導いて下さったということは分かる。

こちらにお参りするようにと。

求めなければ何も降りてこない。

それは至極当然のことであり、インターネットで検索する時も検索ワードを入力しなければ結果が表示されず、ついついどうでもよい、必要では無い情報に目が奪われ時間を費やしてしまう事があるけれども、それと同じで自分が求めているものをはっきりと示さなければ、不必要な情報しか得ることはできない。

私は求めていた。

この状況から救って欲しい、助けて欲しいと。

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