一生に一度は参拝したい~鎌倉大仏殿高徳院にお伺いしました

佐助稲荷神社から歩いて長谷寺まで移動することにした。

途中鎌倉大仏殿高徳院があるので、まずはそちらにお伺いすることにしたのだけれども、佐助稲荷神社から鎌倉大仏殿高徳院までは1km程度、歩いても12分程度と意外に近かったりする。

このルートには観光客の姿は殆ど無く、観光地特有の喧騒とは程遠い時間が流れていて実に私好みのルートだった。

そしてこのルートを歩いて行くと、鎌倉大仏殿高徳院の裏側に差し掛かる訳だけれども、高徳院の境内にある木が塀を覆い尽くすかの如くの姿を見て、生命力の凄さを感じてしまったりして。

そして表通りに出ると、やはり鎌倉と言えば大仏様という通り、多くの人々の姿があり、日本人のみならず特にアジア系の人々の姿を多く目にした。

それもそのはずで、鎌倉のお寺めぐりのガイドブック『鎌倉の古道と仏像 (楽学ブックス)』の中で、高徳院のページには

国内だけはなく、仏教東伝の象徴として、敬虔な仏教徒の多い東南アジアを中心とする国々からも一生に一度は鎌倉大仏を拝観したいと、多くの人々が訪れるという

~『鎌倉の古道と仏像 (楽学ブックス)』より引用

と書かれていた。

そして鎌倉大仏殿高徳院に到着した。

鎌倉大仏殿高徳院

仁王門へと歩みを進める。

仁王門

お守りされている方々にもご挨拶させていただき

拝観料を支払った後、手水で清める。

実は鎌倉大仏殿高徳院も今回が初めてという訳では無く、神社仏閣には全然興味が無かった頃に訪れていた。

その時は、ただ単に大きな大仏だなぁ、という感想しか持たなかったような記憶があるのだけれども、やはり数多くの神社仏閣にお伺いした今となっては、思う事も違ったりして。

そして歩いて行くと、目に飛び込んでくるのは鎌倉大仏。

鎌倉大仏

お伺いした時が晴天に恵まれていたこともあって、その空の碧さが大仏様を引き立たせるかのようにくっきりとしたコンストラストを生み出していて、とても美しく感じてしまった。

そしてこちらにお招きいただいたことに感謝してお参りさせていただいた。

余りの美しさに写真を撮りまくる自分(笑)

そして札所脇にある御朱印受付所で御朱印帳を預け、御朱印が書き上がるまでの間、大仏様の胎内にお邪魔することにした。

胎内に入るにはお金がかかるのだけれども、その料金はたったの20円。

が故に、多くの人々が胎内に入るので、人数も制限されるということなのだけれども、お伺いした際にはスムーズに入ることが出来た。

真っ暗な中、狭い階段を登る。

そして胎内の中の踊り場のように決して広いとは言えない場所へとたどり着く。

あの大仏様の中に自分が居るのだと思うと不思議な気持ちになると同時に、こういった大きなものが昔の人々の手によって造られたということに、信仰の偉大さをひしひしと感じてしまった訳でして。

そして胎内を出て、御朱印帳をピックアップして回廊裏手方面へと向かう。

そこには観月堂というお堂があった。

観月堂

こちらは鎌倉観音霊場の二十三番札所であり、堂内には徳川秀忠寄進の札所本尊聖観世音が奉安されている。

やはり鎌倉観音霊場めぐりを再開させた方が良いのかという気持ちになりながらも、こちらにお招きいただいたことに感謝してお参りさせていただいた。

そして高徳院にお伺いするのならば是非とも見たいと思っていた与謝野晶子の歌碑を見た。

与謝野晶子 歌碑

かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな 晶子

と与謝野晶子が詠んだ歌が書かれているのだけれども、当時は尊い仏様を「美男」と称したことに対して批判があったと、何かの本で読んでとても興味を覚えたのだった。

与謝野晶子という人は、今でこそ教科書に載るような人だけれども、当時では考えられない位の新しい思想を世の中に放ったというそのスタンスに、私はとても惹かれるものがありまして。

自分の考えを世に解き放つということは、それだけリスクもあるのかも知れないなんて思ってしまうけれども、これは現代に限ったことでは無くて、与謝野晶子が生きていた時代もそうなのだろう。

三島由紀夫の『不道徳教育講座 』を読むと、あの時代でさえ、わざわざ誹謗中傷を本人の元に手紙でよこしたりする人が居たということを知って、インターネット全盛の現代だけではなく、何時の時代にもそういった人が居るのだと思ったりした。

お節介は人生の衛生術の一つです。人の思惑などかまわず、これを行使する必要がある。会社の上役には下僚にいろいろと忠告を与え、与えられた方は学校の後輩にいろいろと忠告を与えます。子供でさえ、よく犬や猫に念入りに忠告しています。

全然むだごとで、何の足しにもならないが、お節介焼きには、一つの長所があって、「人をいやがらせて、自らたのしむ」ことができ、しかも万古不易の正義感に乗っかって、それを安全に行使することができるのです。

人をいつもいやがらせて、自分は少しも傷つかないという人の人生は永遠にバラ色です。

なぜならお節介や忠告は、もっとも不道徳な快楽の一つだからです。

~『不道徳教育講座 』より引用

人をいやがらせて、自分は少しも傷付かないというのは、目に見える世界の話であり、目に見えない世界では、それこそ何倍も悪行を重ねているのだけれども、ね。

善い思いも悪い思いも、全ては本人に返ってくるということで。

それにしても鎌倉の大仏様はやはり与謝野晶子が美男と感じてしまった位の美しさがあった。

どの角度から見ても、とても美しい。

自分が目にして感じたことを、そのまま表現できるようにありたいと願い、そして名残惜しい気持ちに苛まれながら高徳院を後にした。

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