行きたい場所について調べるということは、旅の醍醐味の一つだと思っているので、手軽に調べられるインターネットじゃなくて、出来るだけ詳しい情報を、書籍で調べるようにしている。そして最近、永平寺に行きたいと思うようになってきたので、ここ数日は永平寺関連の本を読みまくっている。
その中の一冊『心が疲れたらお粥を食べなさい。 豊かに食べ、丁寧に生きる禅の教え』という本を読んだ。
この本の著者は永平寺で2年2か月修行されたという、吉村昇洋さんという方で、彼岸寺というサイトで精進料理のコンテンツも連載されている。
タイトルからして、永平寺の料理の極意でも書かれているのかと思いきや、もっと奥深い世界が描かれていた。もちろん永平寺のおかゆのレシピや、精進だしの取り方なども書かれているのだけれども、読後は、普段自分が何気なく行っている全てのことに対して、もっと意識して丁寧にしていかなくてはならないと思ったりした。
私自身は無宗教だけれども、親は禅に関する宗派だったので、躾はとても厳しかった。
くちゃくちゃ音を立ててご飯を食べてはイケナイ、口の中に食べ物が入った状態で話をするなどもってのほかで、小さい頃はご飯を食べる時間というものは、ある種恐怖の時間だったりした。
また、何気なくテーブルに肘をついてご飯を食べようものならば、怒涛の如く怒られたし、食器を手で持たずに、お皿に顔を近づけて食べようとすると「犬が食べているのか?」と諭されたり。
今となっては、親の愛情から故、世間に後ろ指を指されないようにしっかりとした人間になって欲しいと躾られていたと感じることは出来るのだけれども、いかんせん、小さい子はそんな親の愛情が分かる訳が無いので、小さい頃は「他の子の親はそんなこと言わないのに、なんであたしの親はこんなこと言うんだろう」と真面目に自分が橋の下で拾われてきた子だと思っていた(笑)
そして、修学旅行か何かの旅先で、クラスメイトのお茶椀にご飯粒が残っているのを見て、普段親から口やかましく言われている通りに「お茶椀にご飯粒が残っていると目がつぶれるよ」と言ったら大笑いされたことを、この部分を読んで思い出した。
同年代の友人たちと食事をしていたときのころです。ある友人が茶碗にご飯を食べ残しているのを見て、他の友人が「ご飯粒を残すと、目がつぶれるよ」と言いました。
この言葉を聞いた瞬間、”久しぶりに聞いたなぁ”という思いが浮かんできて、子育ての真っ最中でもあるその友人が、きっと自分の子にも同じように教育しているのだろうと想像すると、何とも微笑ましかったのですが、その一方で、”なぜ目がつぶれるのか?”という疑問もわいてきました。
というのも、普通に考えれば、食べる行為は口を使うわけですから、口や舌に罰が当たってもおかしくないと思ったのです。
道元禅師の記された『典座教訓』には、北宋時代に活躍した保寧山仁勇禅師の言葉を引いて、「米や野菜などの材料を人間の目のように大切にしなさい」と述べられています。
つまり、人体の中でも目が重要視されていたということですが、長年、長野県で青少年の教育に携わってきた奥村秀雄先生が、ある講演会の中で「ご飯を粗末にするような子には、そのものがどんないのちを持っているかという本質を見抜く心の窓が曇るということを教えた」と語っておられ、つぶれる゛目”とは、実際の目ではなく、食にまつわる構造や背景を見渡すことのできる゛こころの目”であるとしていました。
゛他の人が見て、嫌な思いをするような食べ方は慎むべき”と曹洞宗の開祖道元禅師も言われていますが、自分のことだけではなく、他者との関係性をも含めた視点を持って、見たいものだけを見る独りよがりな目ではなく、食事という実践の中から広く世界を見渡せる゛こころの目”を養いたいものです。
そして、この本からの感じた一番のメッセージは「丁寧に生きること」と言うことだった。
最近、サカナクションの『新宝島』ばっかり聞いているのだけれども(笑)、何故そんなに聞いているのかと言えば、「丁寧」という言葉が、とても優しく響いているから。
このまま君を連れて行くと
丁寧に丁寧に描くと
揺れたり震えたりした線で
丁寧に丁寧に丁寧に描くと決めていたよ
~サカナクション 『新宝島』歌詞より引用
他人に対しても丁寧であり、そして自分自身に対しても丁寧であるということ、それこそが大切なことなんではないかと、改めて思った次第でございまして。
では、こういった作法が活きるのは、食事場面だけでしょうか?いえいえ、そんなことはありません。ひとつひとつの事象に丁寧に向き合うことは、どんなことにも共通してできることです。
ついつい、雑多な日常生活を送っていると、あれもこれもやらねばと焦ってしまい、どれもが中途半端な結果になってしまうことも少なくありません。
人間ひとりにできることなど、自ずと限界があるわけですから、一度頭の中を空っぽにして、ひとつひとつ丁寧に積み重ねた方が、却ってより良い結果が生じたなんてこともあるわけです。
どんなことでも構いません。自分が日常的にやっている行動のどれかひとつでも、今までよりも丁寧に行ってみてください。普段の行いの中に重大な気づきは潜んでいるものです。
この本を読んだ後に、本に書かれている通りに食事をいただいた。
普段、何気なく食べ物を口に放り込んでいるだけの食事という行為が、全く違ったものに感じることが出来た。
何も滝に打たれたり、断食することが修行ではない。
生活の一場面、一場面を丁寧に行うことこそ、それこそが修行ではないかと改めて気付く事が出来たとても良い本でした。