自分が自分を自分で自分すること

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最近は、澤木興道老師様の本を読み漁っている。

Amazonを見ていたら、おすすめ本の中に『禅談』という本を発見し、それを元に澤木興道老師様のことをネットでチェックしたら、そこに書かれている言葉に触れて、ハリセンで頭を叩かれたような衝撃を受けた、ということもあって、本を取り寄せて以来、ずっと読んでいる。

坐禅というものは、高野山に初めて行った際に、宿坊で教えて貰ったり、金剛峯寺で行われていたワークショップに参加した際に体験させてもらったので、はっきり言って真言宗の座禅の方法しか知らなかったりする。

澤木興道老師様、というキーワードでAmazonで調べると、『坐禅要典』という本に、「坐禅の心構えー澤木興道老師の言葉より(編集部編)」ということで、澤木興道老師様のお言葉が載っていた。

坐禅の心構え

毎日、マッサラになる、生まれ変わる。我々は毎日、朝起きる時には、元旦のあの気持ちでなければならん。慣れた座禅は糞の役にも立たん。マッサラな座禅でなければならん。

自受用三昧ということは、自分が自分を自分で自分することである。坐禅には階級がない。どんな老僧の坐禅でも、どんな小僧の坐禅でも、坐禅は座禅である。誰でも坐れば諸仏の自受用三昧である。つまり、この坐禅は、人間関係、社会関係などの派生しない以前の大自然に生かされた、生まれながらの自己を修行することである。

坐禅して「ホトケになろう」、「サトリをひらこう」というのも、「モノを追って歩く」ことである。坐禅は「ホトケになろう」、「サトリをひらこう」ということもヤメルのである。

現在かぎり、今ぎり、この瞬間ぎり、ぐずぐず言うな。ここに精一杯力をいれるほかに、何の途もないじゃないか

信心とはウワサ話ではダメだ。現実に今、ここでの、おれの問題でなければ信心とは言われぬ。本当に、今ここで自分が、仏身を見、仏説を聞いているかどうかだ。

信仰というものは、神頼みのことではない。「どうぞ息災でありますように、災難を逃れますように南無観世音菩薩」と拝むものではない。信仰とは神仏に対する依頼ではなくして、むしろ神仏に即する内面生活である。

宗教というものは、もっとも明るい生活をすること、裏表のない生活をすることである。人が見ていようが見ていまいが、神様が見てござろうがござるまいが、自分一人褌を締めるところにも、しっかりした宗教がなければならん。

拝むということは何かと言うたら、あなと私と継ぎ目なしになることじゃ。仏様を拝むということは、仏様と自分と継ぎ目なしになる。

道心がありさえすれば一切のところに幸福があるわけである。どこへ行っても幸福である。不幸な所がなくなる。不幸な時がなくなる。

澤木興道老師様の本は、本当のことしか書かれていないので、読んでいる間はずっとハリセンで頭を叩かれているような気分になってしまう(笑)

けれども、読後は、とてもスッキリした気分になって、生きるということが随分と楽になった。

結局は「自分」が生きていくということは「自分」しかいないということ。その「自分」を世間が決めた物差しメガネを通してしか見ていないということに気が付いたのだった。

自分自身を生きること。

ありきたりな言葉だけれども、澤木興道老師様の本を読んでいて、それが如何に大切なのかということが分かった。

よくスピ系でさ、「自分を愛することが必要」とか言われても、「嘘付け~」としか思えなかったんだけれど、「自分を愛する」とかそういう生易しいことじゃないんだよね。

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