自分の歌を歌う為に、イリュージョンを読む

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昔の本を引っ張り出してきた。リチャード・バックの『イリュージョン 』。村上龍が翻訳しているバージョンの方。

私は村上龍が大好きなので、高校生の頃から崇拝していた(笑)この本も、村上龍が翻訳しているから、もちろん読んでいたけれど、今読み返してみると、全然違ったお話に感じられた。

真実というのは、とても簡単なことで、だからこそ気付く事が難しいのだと改めて思った。昔読んだ時には、その真実が書かれた言葉の表面しか読み取っていなくても、その本を読んだ気になっていた。

けれども、いろいろな経験を積むことで、その真実の言葉が、乾いた土が水を惜しみなく吸い込むように、自分自身の心に伝わってきた。

ぐぐっと来た言葉の数々を幾つか。

いかなる種類の生や死を選ぼうとも自由だが、義務というものがあるとすれば、自分に忠実でなければならないということそれ一つだけである。

最も単純な疑問が
最も深い意味を持っている。
君はどこで生まれどこで育ちどこで何をしようとしているのか?
これらの答えは、君達自身と共に常に変化しているはずである。

ある願望が君の中に生まれる。
その時、君はそれを実現させるパワーが
同時に在ることに気付かねばならぬ。

しかし、そのパワーの芽は、
きっとまだ柔らかい。

もし君が引き寄せたものを自分のものにしたかったら、想像の中に君もちゃんと登場させなきゃだめさ

俺は別に世の人々に感銘を与えるために生きてるわけじゃない、俺は俺のためだけに生きてるだけだ、

第二に、同じことは他の人にも言える、他の人もみんな好きな事を自由にやっていいんだ、

第三に、責任ということもあるだろう、好きな事をやっていく場合の責任だ、誰に責任を負うのか?それはもう自分自身だ、つまりこうだ、それをまとめるとこうなる、俺は他の人が好きなように生きるのも認めるし、俺自身が好きなように生きるのも認める。

自由に生きるためには
退屈と戦う必要がある。
退屈を殺し灰にしてしまうか、
退屈に殺されて家具になるか、
激しく根気のいる戦いである。

自分の話に他人が関心を持つだろうって期待するのは、他人に自分の幸福を依存するのと同じだって言ったよ君は、それが正しいっていうのがわかったよ、自分の言うことが相手に通じようが通じまいが関係ないんだな。

本編はハーマン・ メルヴィルの『白鯨』のように、最後が最初に戻っていくという形式に書かれていて、それがある種リーンカーネーションを彷彿とさせる部分もあり、読後はすこしぼんやりとしてしまうので、時間がある時に読むと良いのかも知れない。

最後に村上龍が解説を書いていて、リチャード・バックが来日した際に、本人と会った時の事を書いているのだけれど、その中でリチャード・バックの言葉が紹介されていた。

 人間が学校というフェンスを出ると、そこは、ドラゴン・ワールド(現実の、悪意に充ちた世界)なわけだ。地球上には三十億だか、四十億だかの人間がいて、おまえはその三十億プラス一の余り者にすぎない、おまえのことなんか誰も関心を持っていやしない、生きていようと死のうと、こっちの知ったことか、みたいな扱いを受けることになる。ある人間がだめになるというのは、そういうことなんだよ。

どうやってそれに対抗するかといったら、やっぱり自分の歌をうたい続けることだと思うね。『うるせえ、おまえのその変な歌をやめねえと張り倒すぞ』かなんか言われて、それでだめになっちゃうことだってあるけど、張り倒されても、まだ歌い続けることだ。

もちろんドラゴン・ワールドにあっては、明日の飯代をどうしよう、今日の部屋代をどうしようなんていうわずらいもある、それはしょうがないから、思いわずらい、駆けずり回りながらでも、自分の歌だけは歌い続けるわけだ

このセンテンスを読んで、このリチャード・バックの発言が、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』にも影響したんだろうな、とふと思った。

ハシの叫び声は歌に変わっていく。聞こえるか?ハシは彼方の塔に向かって呟いた。
聞こえるか?僕の、新しい歌だ。
~村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』より

イリュージョン (集英社文庫 ハ 3-1)

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