運心回峰のすすめ~『花咲け 人咲け 命咲け 歩けなくても 心咲け』

ご縁がある神社仏閣からも続々と、しばらくの間、参拝をお断りするといった旨のお手紙が届くようになってきた。なので今月はいつもお伺いしている所への参拝は自粛して、代わりに献酒用に送金させていただいた。

ここ数週間はまるまる在宅勤務&外出自粛という生活なので、正直メンタル的にやられそうになるけれども、辛うじて朝晩に自宅でお祀りさせていただいている神仏へのお勤めで正気を保っている部分がある。

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先日時間があったので、本棚を整理していたら、小冊子が出てきた。

これは何時手に入れたのだろう?と思いながらページをめくると、比叡山にお伺いした際に比叡山に関する書物が欲しいと思い、万拝堂近くの売店で酒井雄哉大阿闍梨様の本と一緒に購入していたことを思い出した。

酒井雄哉大阿闍様は、この小冊子『花咲け 人咲け 命咲け 歩けなくても 心咲け』の著者である小林隆彰様のご縁で得度したということで、比叡山について何も知らなかった頃に、偶然にも同時にこの2冊を購入したことは、不思議と言えば不思議でもある。

久方ぶりに読み返してみると、今のこの状況下で必要だと思われることが書かれていた。

運心回峰のすすめ

比叡山には古来から、運心回峰という修行がある。運心とは、心を運ぶという意味だから別に回峰行のように山道を歩くことだけにその意味を固定することはない。禅の考案なども心を運ぶことであろうし、仏の慈悲を思うことも運心であろう。

運心にはもう一つの意味がある。すなわち心を込めて物を運ぶということだ。第二百五十三代の天台座主山田恵諦猊下は、さる運送会社の機関紙に、荷物は心で運ぶと説いたし、その会社の創始者佐川清氏は荷主の心になって荷物を運ぶと言った。双方とも心に通じるが、私がいま言うのは、座っていながら心で身体を運ぶことなのである。

三十キロを六時間で歩くとすれば、運心回峰も六時間かけて座る。だから運心回峰は、実際に歩く道を修行した人でなければ出来ない。

比叡山の回峰行は、ひと廻り三十キロの山坂道や、京都赤山禅院への雲母坂を通う赤山苦行、更に洛中洛外八十キロを巡礼する京都大廻りなどを総称するが、この運心回峰は実際修行と異なり、修行者はお堂の本尊の前に座ったままで一歩も動かずに巡礼の道を頭に描いて脳で歩くのである。

また、実拝して歩くよりも座ったままで歩く方がむずかしい。何故なら、心を常に一点に集中していなければならないからだ。山道の石ころ一つにまで心を懸け、可憐な草花の姿をも頭に浮かべなければならない。お堂のたたずまい、ご本尊の顔かたちを心に映して読経するのだ。山道を歩けば七時間で帰ってくるのにその倍もの時間かかることもあれば、僅か一時間で帰ってきてしまうこともある。心が右往左往するからだ。比叡山に居ながら、心は東京を歩いていたり、お薬師さまのお経を唱えていながら全く別ものの姿を描いていたりする。

さて、一般社会の人が、どういう風にして運心回峰をするのか、私の提案である。

病室での時間は長い。また、自宅療養の人にも時間に不足はない。だから寝たままでも座ったままでもよいから、毎日一度だけでも運心回峰をすることをすすめたい。自己の越し方を廻想するのである。

六十代の人は物心ついてから十歳までの記憶をたどる。次が青春時代、勉強や運動、恋愛など、思い出に限りはない。悲しくて思い出したくないことも多いに違いない。だが待てよ、過去をしっかり思い起こしてみよう。親の心や友達の言葉、案外、新しい発見をするものだ。両親に対し、今まで思ってもみなかった感謝の念が湧き起こったり、兄弟姉妹への気づかなかった思いやり、恨みに思っていた友達が急に懐かしくなったり。こうして、毎日、一時間、過去を運心するのである。思い出して深く感じたことはノートに書き留めてもよい。青春時代に心を運ぶと、その人の血液は青年のように躍動する。急に顔色がよくなるのである。子供の頃の母の顔を思い出すと我が子供に対する接し方を反省したり、急にお墓に詣りたくもなる。

人は過去に生きると年をとる、という人もあるが、歴史を知らぬ人は痴人であるとも言う。特に、自己には自己の歴史がある。一度しかない人生の過去を運心するのは残された人生の貴重さを再確認する大切な作業なのだ。

すなわち、過去を歩くのである。その歩き方も出来るだけ丁寧に歩く。忘れてしまっていることも思い出すように努力する。これはボケ防止の最高の予防法なのである。

歩くと人の心がわかると言う。自然界の話し声が聞こえる。草花が呼びかける。雲が招いている。道行く人も笑いかけている。なるべく楽しくその光景を思い起こすのだ。近年われわれはテレビに引き摺られて主体的な思考ができなくなった。マスコミの誘導に意識せずについて行く癖がついてしまったのである。

歩いた道を心で歩く時間は人間に自己を取り戻させてくれる貴重な時間である。足に故障のある人、あるいは、他に病を得て体を横たえていなければならぬ人はぜひこの運心回峰をおすすめしたいのである。

~『花咲け 人咲け 命咲け 歩けなくても 心咲け』より引用

今は外出自粛ということで、それがストレスにもなりかねない状況だけれども、強制的に自己と向き合う時間が出来たとも考えられる。

昔の記憶を辿っていくというのは、まだ私には厳しいものがあるので、これはもう少し年老いてからにしようと思うけれども、いつもお伺いしているところへ、心の中でいつも通りに参拝してみようと思った。

昔、いつもお伺いしているところへ行った時に、お社の写真を撮ろうとしたら、とある方から注意を受けた。

東京からは頻繁にはお伺い出来ない場所でもあるし、写真に収めたお社を見て神仏を思い起こしたい旨説明するも、写真なんか必要としない位に、頻繁にお参りに来て、良く祈れ、そして目を瞑った時に、お社が目前にあるかのように、心の中に神様と交流するお社を建立しなさい、と。

その時は、この人何を言っているのかしらん?などと不届きなことを思ってしまったけれども、時間が経つにつれ、その意味が分かるようになったし、今の状況下、この言葉の意味を重く噛みしめている。


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