三島由紀夫の『英霊の聲』を久しぶりに読んだ。そして、その後何故か普段立ち寄らないTsutayaに行き、『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』を借りてこの映画を見たら、あまりにも衝撃を受けてしまい、ブログを書くことすら出来なくなってしまった。
私は若い頃から三島由紀夫は好きで読んでいたけれども、神社仏閣にお伺いすることが趣味となって、そして目に見えない世界を信じるようになってから、あらためて三島由紀夫の作品を読むとその作品の中に描かれている記述の正確さに改めて脱帽してしまう位の情報が、その小説の中に織り込まれていることを感じたりする。
『英霊の聲』という小説は、三島由紀夫が書いたものだけれども、ある者が三島由紀夫に乗り移って書かれた作品だと囁かれているものだったりする(詳しく知りたかったらググって調べてみて下さい。私にはとてもじゃないけれど詳細は書けません)
確かにその作品を読むと、明らかにそれまでの三島由紀夫の文体とは異なっているように感じる。
けれども、その中には、その時代への日本人への警告が書き示されていることを考えると、この作品で訴えたかったことを三島由紀夫という人物を介して発表されたということが、とても重要な意味を持つのだと感じたりした。
この作品について語る事は、私にはヘビー過ぎる。
しかしながら、目に見えない世界や心霊の世界を語る人々は、一読すべきだと思える小説だと思う。
その世界が、いかに恐ろしいものだということを知るという意味に於いても。。。
『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』を見た夜は、夜中に嫌な夢を見てしまった位だった。嫌な夢と言うと語弊があるかも知れないけれども、亡き者たちの叫びを聞いてしまい、目覚めてしまったというのが正直なところだったりする。
その映画で描かれている世界は淡々としたものだったけれども、その画面から通じるものに反応してしまった自分が居たのだろうと思う。
……今、四海必ずしも波穏やかならねど、
日の本のやまとの国は鼓腹撃壌の世をば現じ
御仁徳の下、平和は世にみちみち
人ら泰平のゆるき微笑みに顔見交わし
利害は錯綜し、敵味方も相結び
外国の金銭は人らを走らせ
もはや戦いを欲せざる者は卑劣をも愛し、
邪まなる戦のみ陰にはびこり
夫婦朋友も信ずる能わず
いつわりの人間主義をたつきの糧となし
偽善の団欒は世をおおい
力は貶せられ 肉は蔑され、
若人らは咽喉元をしめつけられつつ
怠惰と麻薬と闘争に
かつまた望みなき小志の道へ
羊のごとく歩みを揃え、
快楽もその実を失い、信義もその力を喪い、
魂は悉く腐蝕せられ
年老いたる者は卑しき自己肯定と保全をば、
道徳の名の下に天下にひろげ
真実はおおいかくされ、真情は病み、
道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく
なべてに痴呆の笑いは浸潤し
魂の死は行人の額に透かし見られ、
よろこびも悲しみも須臾にして去り
清純は商われ、淫蕩は衰え、
ただ金よ金よと思いめぐらせば
人の値打は金よりも卑しくなりゆき、
世に背く者は背く者の流派に、
生かしこげの安住の宿りを営み、
世に時めく者は自己満足の
いぎたなき鼻孔をふくらませ、
ふたたび衰えたる美は天下を風靡し
陋劣なる真実のみ真実と呼ばれ、
車は繁殖し、愚かしき速度は魂を寸断し、
大ビルは建てども大義は崩壊し
その窓々は欲求不満の螢光燈に輝き渡り、
朝を朝な昇る日はスモッグに曇り
感情は鈍磨し、鋭角は磨滅し、
烈しきもの、雄々しき魂は地を払う。
血潮はことごとく汚れて平和に澱み
ほとばしる清き血潮は涸れ果てぬ。
天翔けるものは翼を折られ
不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑う。
かかる日に、
などてすめろぎは人間となりたまいし
~英霊の聲 より引用
今日、仕事からの帰り際に、自宅からの最寄り駅で両腕にタトゥーをしている若者を見かけた。
私が住んでいるところでは珍しい風景では無いのに、その若者を見て、フト、そのタトゥーを入れる意気込みは本物であるのか?と感じている自分が居た。
そのタトゥーを入れた若者を見て、そのタトゥーを入れる意気込みで、自分が信じるもののために、自身の腹を切り裂いて、それを示すということが出来るのか?そして、その後に、自らの首を他者に撥ねさせることが出来るのかということを問うてみたい衝動にかられた。
自分が今、何でこんなことを書いているのかはよく分からない。
けれども、これを書かなくてはならないらしい。
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