中津に到着。中津は「はもの里」らしい。
昨日は中津の神社を巡ったので、今日は中津の城下町観光という事で、早速街を歩いてみた。
まずは魚町の蛭子宮というところ。案内板には
魚町の蛭子宮は江戸時代に若松湾の蛭子宮の御分霊を勧請したと伝えられ、祭典は12月3日に執り行われます。西の博多と言われてた豊前中津の城下町にふさわしく商売繁昌の神として、又家内安全の神として魚町を始め、魚の辻・中津城周辺の人々の信仰厚く現在に至っております。明治・大正時代には祭りも盛大で大いににぎわいました。福の神にあやかり城下寺町散策コースの出発点として御参拝の上、散策におでかけ下さい。
と書かれていたので、お参りしておいた。
城下町的な雰囲気を歩いていくと
合元寺(通称:赤壁寺)が見えた。
合元寺(通称:赤壁寺)
1587年(天正15)、黒田孝高[よしたか]によって建立。深紅に塗られた壁は城下町・中津の中でもひときわ強烈な印象を与え、別名・赤壁寺とよばれる。豊臣秀吉の時代、豊前の実力者だった宇都宮鎮房[しげふさ]が騙し討ちに遇い、この寺を宿舎にしていた家臣たちも全員討ち死。その時の血潮を浴びた門前の白壁は何度塗り替えても血痕が浮き出るため、ついに赤壁に塗り替えたという。柱には当時の刀傷も残り、家臣たちの無念と悲しみが壁の血痕を何度も浮き出させたと伝えられている。
~Yahooトラベル観光ガイドより引用
と結構すごいところ。
こちらには『おねがい地蔵尊』というお地蔵さんもいらっしゃいます。
合元寺で頂いたリーフレットによれば
合元寺の地蔵尊は明治の先駆者福沢諭吉翁が長崎に遊学するにあたって、学業成就を祈願したことで広く知られておりますが、その昔、学業成就を祈願した方と、商売繁盛を祈願した方と、今風にいう、老人痴呆封じを祈願した方が、それぞれ合元寺地蔵尊の霊験を頂戴したおかげで数年後、期待どおりの成果をあげられました。その効験を悦ばれてお礼参りをしますと、不思議な事に見も知らぬその三人が同時に合元寺の地蔵尊の前で顔を合わせたことから、いつの頃からか『三願成就の地蔵尊』とよばれるようになりました。
また企救群(現在の北九州市)の庄屋の娘が、風雨の中、十里(四十キロ)の道を遠しとせず、合元寺に参り、地蔵尊にぬかづきて
「どうぞ、このわたしめに、よき生涯の伴侶を」
とお願いしました。すると地蔵尊が尊げに微笑み、
「汝の願いを、よく、聞きとどけん」
と声に出され、まもなくその娘に三国一の花婿を授けられたといわれることから、『願掛け地蔵』とも『お願い地蔵』ともよばれるようになりました。
と、かなりご利益のあるお地蔵さんみたいです。
お参りさせて頂き、次に向かったのは大法寺というお寺。
大宝寺
こちらは黒田官兵衛ゆかりのお寺ではないのだけれど、
大法寺は、妙顕寺末日蓮宗一致派の寺院で、山号は眞淨山と号します。
慶長5(1600)年、大法院日周上人の開山で建立されました。 邸内には加藤清正を祀る淨池宮、婦人病平癒に功徳のあると伝えられる秋山堂が建立されています。
大石良雄奉納という二基の石灯籠、由井正雪が植えたと伝えられる塩釜桜の大樹があり、一名正雪桜とも言い伝えられています。 三十一世日良上人は文学に秀で俳句をよくし、京都で有栖川宮に招かれ、「花廼庵」の号を賜り、中津では多くの俳人を育てました。 境内には日本で最も早い時期の嘉永2(1849)年に種痘を行った辛島正庵、小幡栄之助の先祖、福沢諭吉の姉(小田部家)お礼の墓などが境内にあります。
という事だったので、参拝させて頂いた。
加藤清正を祀る淨池宮
お次に黒田官兵衛ゆかりのお寺「円応寺」へ。
円応寺
黒田官兵衛による開基で、真誉上人の開山。黒田氏が福岡に移った後も細川氏、小笠原氏など歴代の藩主に大切にされたお寺で、「河童の墓」があることでも有名なところです。
こちらは、「江戸時代中期、寂玄上人が河童共を問答の末に仏門に入らせ、修行の末、河童の頭目三匹に戒名を授けた。河童達は、感謝の気持ちからか、その後、寺を火難から守った」と河童にまつわる話があります。
河童の墓
河童の池
河童の墓と池は、墓地の中にあるので、ここを見たいのならば、自ずと墓地の中を歩かなくてはならなかったので、私は結構つらかった(トホホ)
そそくさ円応寺を後にして、次に向かったのは円龍寺。
円龍寺
ここは黒田官兵衛ゆかりのお寺ではないのだけれど、閻魔様のお寺として知られているということで、見ておきたかったのです。
なかなかの迫力です。
閻魔様に現状打破をお願いして、次に向かったのは西蓮寺。
西蓮寺
開基・光心師は俗名「黒田市右衛門」といい、黒田官兵衛の末の弟です。父・黒田美濃守職隆の逝去に伴い出家したといわれ、官兵衛を慕って中津に移り、天正16年(1588年)に当寺を開山しました。~中津市HPより引用
これで一通りお寺は巡ったので、近くの福澤諭吉旧居・記念館に行ってみた。入館料は¥400だけれど、中津城との共通チケットが¥600だったので、それを購入した。
福澤諭吉旧居・記念館
福澤諭吉は、天保5年(1835)に大坂の中津藩蔵屋敷で、13石2人扶持の下級武士福澤百助の次男として生まれました。1歳6ヶ月の時父と死別し、母子6人で中津に帰郷。貧しくとも信念を持った少年時代を過ごし、14歳になって儒学者白石照山の塾に入りました。
安政元年(1854)、19歳の時蘭学を志して長崎に遊学、翌年からは大坂の緒方洪庵の適塾で猛勉強に励みました。安政5年(1858)には、藩命により江戸の中津藩中屋敷に蘭学塾を開きました。これが慶應義塾のはじまりです。
西洋の語学力と知識をたくわえたいと考えた諭吉は、万延元年(1860)「咸臨丸」に乗り込み渡米。以後、ヨーロッパ諸国も歴訪し、社会の制度や考え方などに旺盛な好奇心で見聞を広めました。その後『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略』などを続々と著し、当時の日本人に西洋文明の精神を伝えました。
~福澤諭吉旧居・記念館HPより引用
私は勉強不足で、福澤諭吉という人は、渡米出来るくらいの財力を持った裕福な人だと思っていて、幼いころは貧しかったことすら知らなかった。それでも勤勉さで、自らの道を切り開いて行った人だと知って、今の自分に必要な事を思い知らされた。
福澤諭吉旧居
福澤諭吉が少年の頃、自分で手直しをして、長崎に遊学する19歳頃まで米を突いたり、窓辺で学問を続けたという土蔵。
福沢諭吉旧居内には白鷺稲荷社という神社もありました。
福澤諭吉旧宅・記念館というところは、正直に言うとそんなに期待していなかった。けれどもとても良いところだった。福沢諭吉は男女平等を訴えていた人だと知れたこと、また自分がやったことは自分にかえってくるという事を子供たちに言っていたということを知って、すっかり感動してしまった。そして記念に受付で売っていた「ひゞのをしえ」という本を購入した。この本は明治4年に福澤諭吉が子息のために、半紙四ツ折の帳面をこしらえて、毎日一箇条づつ書いて与えたものをまとめたもの。「人としての生き方」について書かれていた。
清々しい気持ちで福澤諭吉旧宅・記念館を後にして、中津城へ。
中津城
昨日は出ていなかった、観光地定番の顔出し看板。
奥平神社を横からみるとこんなカンジ。
そして中津城の中に。
中津城、黒田官兵衛好きな人ならば、楽しめるところだと思います。
私は何故か東京に戻りたくて仕方がなくなった2日目の旅でした(爆)