心を整える~西教寺にお伺いしました(その2)

本坊に到着。

本坊前には立砂らしきものがあり

上賀茂神社みたいだなぁと思いながらも、拝観料を支払い、本堂へと進む。

この先は写真撮影禁止だったので、写真が無いのだけれども、本堂にお邪魔すると金色に彩られた阿弥陀如来様がいらっしゃった。

参拝客は私以外、誰も居ない。

その贅沢な時間に感謝しつつ、こちらにお招きいただいたことに感謝してお参りさせていただいた訳なのだけれども、誰も居ない、と思っていたはずなのに、カーンと乾いた鐘の音が本堂内に響いた。

気配が全く感じられなかったのだけれども、内陣には、一人の老僧が居た。

その老僧は何かの経を読み終えると同時に、鐘を鳴らし、一人黙々と行を行っていた。

その姿はまるで坐禅をしている高僧のように、人の気配というものを全く感じさせないものであり、その姿を見て、いたく感動している自分が居た。

誰に褒められることなく、自分のなすべき事を淡々と行う。

私が崇敬してやまない、宮崎禅師様のお言葉が頭の中をよぎる。

そして、それが、一番難しいことにも、気付く。

人は往々にして、自分が行った「善行」という行為でさえ見返りをいうものを、知らず知らずに求めてしまうものであり、それはまるで取引のように、これだけのことをやったのだから、これだけのものが与えられるのではないか、とか、そういう気持ちを抱いてしまう。

自分が良かれと思ったことを行って、相手から当然の如く感謝の言葉が与えられるのではないかという期待感。

これは世俗諦と言われるようなものなのだろうか、などという考えが頭の中を駆け巡る。

仏教は当たり前の事を説いているからこそ、難しい。

一人の老僧の姿から、いろいろな事を学んだような気分になり、本堂を後にした。

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その後、客殿・書院などを見学し、本坊を後にして、再び境内を散策した。

一人で旅に出ると言う事は、自分自身との対話を持つことでもある。

その自問自答は、時として激しく自身を非難する場合もある。

その非難の気持ちと言うものも、ある種、自身の心を整えるものではないかと、そんなおぼろげな気持ちが芽生えてきた。

そして最後に宗祖大師殿へお伺いする。

こちらにお招きいただいたことに感謝してお参りさせていただいた。

ここから眺める琵琶湖の風景が、お山(比叡山)から見る琵琶湖よりも身近に感じられた。

しかしながら、その姿は距離などは関係なく、とても美しかった。

再び総門へと戻る道すがら、参道にも沢山のお猿さんの姿があることに気付く。

一回は是非ともお伺いしてみたいと思っていた西教寺。

酷暑ということも手伝ってか、参拝客が居ない環境でお参りさせていただけたことだけでも感謝の気持ちで一杯だったけれども、誰も居ない中で、人々の祈りが染み込んだ土地で、いろいろ考える機会が与えられたことにも感謝せざるを得なかった。

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