今回は北鎌倉のお寺めぐりをしてきました。
そもそも今回何故、北鎌倉に行こうかと思ったかと言えば、情報遮断生活を始めて数日経過した頃、グレン・グルードという人の音楽に出会い、そして彼の音楽を聴いていたら、何故か無性に夏目漱石の本が読みたくなり、Kindleで片っ端から夏目漱石の本をダウンロードして読みまくっていた。
正直に言うと若い頃には、夏目漱石と言う人にあまり興味が無かったけれども(教科書に出てくるキレイな物語を書く人、というイメージだった)今の歳になって読みなおすと、キレイとだけでは言い表せない人間の業なるべき奥深いものを感じることが出来る訳でして。
そんな中、夏目漱石の『門』を読んた。
そして主人公が参禅に行ったお寺のモデルが北鎌倉にある円覚寺であるという事を知り、実際この目で見たくなった訳でして。
鎌倉に行くのは約2年ぶりだった。
実のところ、私は鎌倉という土地に余り良いイメージを持っていなかった(若かりし頃、一人で鶴岡八幡宮にお参りに行ったら手水のところに居合わせたツアー客に「一人で来てるなんて寂しいねー」と言われたことや、やはり人が多すぎてお参りどころじゃない、と2年前の訪問でも感じてしまったことが所以で、どうも足が向かないところだった)
ましてや今は紅葉シーズンと言う事で多くの観光客が鎌倉に溢れかえっていることは容易に想像出来たけれども、やはり思い立ったが吉日ということで意を決して再び鎌倉の地に足を踏み入れた。
けれども、予想に反して北鎌倉はとても良いところだった。
円覚寺の開門は朝8時ということで、8時過ぎに北鎌倉駅に到着出来るように移動。
紅葉シーズンだから鬼のように参拝客や観光客が居るのかと思いきや、想像していたよりは人の姿はまばらだった。
そして円覚寺に到着。
円覚寺
朝早い時間ということもあって、清々しい気に満ちていた。
そして拝観料を支払い、境内にお邪魔する。
そして石段の先には、今回目にしたかった山門の姿が見えた。
円覚寺 山門
山門を入ると左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚った。
~夏目漱石『門』より引用
陰気な空気は感じなかったけれども、確かに聖と俗の区切りをこの門が果たしている。
そして三門を潜ると目に飛び込んでくるのは仏殿。
仏殿
靴を脱いでお堂の中にお邪魔する。
すると天井には龍が居た。
お堂の中にお邪魔するとそれまで居た参拝客が蜘蛛の子を散らすように居なくなったので、心静かに宝冠釈迦如来様にこちらにお招きいただいたことに感謝してお参りさせていただくことが出来た。
とてもお優しい方であると同時に、本分を忘れずに精進せよ、というお言葉を授かる。
そのお言葉に感謝しつつ、お堂を後にすると多くの参拝客は妙香池方面に向かう姿が見えたので、人が余り居なさそうな道を歩いていくことにした。
禅寺に来てまで、他人のどうでもよいお喋りとかあまり聞きたくないものでして。
人の余り居ない禅寺の境内を歩くという事は、はっきり言って贅沢な時間だと思う。
こういう時間を都内から1時間ちょっとの移動で感じることが出来る場所があったということに、今更ながら驚いてしまったりする位、今回の訪問は私にとって驚きであり、そして意義のあるものだった。
そして国宝の洪鐘があるという事で向かったところだったけれども、こちらは弁財天様がいらっしゃるところだった。
鳥居を潜り、急な石段を登ると見晴らしの良い高台に出ることが出来て、こちらに弁財天様が御鎮座されていた。
円覚寺 弁天堂
こちらにお招きいただいたこと感謝してお参りさせていただいた。
弁財天様は本当にいつもお優しい。
こちらでも御朱印を頂戴出来るということだったので、御朱印を頂戴した後、ちょっとした広場から開けた場所に目を向けると富士山の姿を見ることが出来た。
これも吉兆だなと有難く感じて、再び石段を降りて境内を散策。
早朝の禅寺と言うものは、歩いているだけで心休まるものである。
妙香池
禅寺というのは、己との対話にはうってつけの場所でもある。
それは先人達の偉業を感じる所でもあるからであろう。
人は環境に左右される生物であり、良い物に染まれば良い人に、悪い物に染まれば悪い人になるということは至極当然のことである。
けれども、時として不運にも悪い物に囲まれる場合もある。
そんな時、悪い物に染まらないように、自分と言うものを律するものが出来ると言うものが、信仰というものなのではないかと思った。
その信仰というのは、己を信じる力ということでもある。