ただ感謝するしかなかった~女人堂・小杉明神社

奥之院から高野山駅方面へ向かうバスに乗車して、女人堂で下車した。

女人堂

こちらにお伺いするのは、初めて高野山に来た時以来ではないかと思いつつ、辺りを散策する。

そしてお堂の中に入ると、神変大菩薩という提灯を目にする。

神変大菩薩ってことはもしかして?と思いつつ、目を凝らしてお祀りされている仏様達を見ると、大日如来様、弁財天様、そして役行者様がいらっしゃった。

高野山で役行者様がお祀りされていたことに、今回初めて気付くこととなって、自分の無知さ加減にほとほと呆れつつも、こちらにお招きいただいたことに感謝してお参りさせていただいた。

お堂で配布されている女人堂の案内紙にもこういった記述があった。

堂内には中央に胎蔵界大日如来坐像を祀り、向かって左に役行者(神変大菩薩)、向かって右には二臂の弁財天蔵を祀ります。

~中略~

左の修験の仏、役行者は高野山においては大変珍しい存在の仏です。

それは私どもは昔、師僧などから高野山は大師が開かれた山なので、大師前の僧(例えば、行基菩薩や役行者)が住んでいたことはないと教えられました。

そのため高野山で役行者を祀ることは珍しいのです。

~女人堂 案内紙より引用

そして、こちらはどことなく、以前参拝させていただいた大雄山最乗寺の慧春尼堂と似たような雰囲気を感じる場所であった。

それはどなたかお優しい方が、お参りする人々をずっと優しく見守って下さっているような、そんな、感覚。

その理由がこちらにいらっしゃる方だと気付く。

小杉明神社

御朱印を頂戴した際に、こちらにお祀りされている方がとても気になったので、合わせて『女人道の由来』という小冊子も合わせて頂戴した。

そしてお堂の片隅の休憩所でその小冊子を読むと、こちらにお祀りされている小杉さんというお方の壮絶な人生を知る事となる。

文永年間(1264-74)、越後の国の本陣宿紀の国屋に小杉という器量の良い娘がいた。

ある日、小杉自筆の「今日はここ明日はいづくか行くすえのしらぬ我が身のおろそかなりけり」との句が書かれた屏風が、三島郡出雲崎代官職植松親正の目に留まり、その縁で嗣子・信房と結婚することになるが、継母の画策で不貞疑惑をかけられた。厳格な親正は「殿さまへのお詫びがたたぬ」と小杉を鳩が峰に連れて行き、両手指を切って谷底に落とした。

弘法大師の加護で命は助かり、山中で生活していたところ、信房と再会して結婚し一子を授かった。その後また継母の邪魔に遭い、夫と離された上、信州の山で襲われ、子供の杉松が亡くなってしまった。

杉松の遺髪を持ち、高野山に来たが、女人禁制で入山は許されなかった。

小杉は、子のために貯めたお金で、女性のため高野山不動坂上に籠もり堂を建て、参詣で訪れた女性を接待するようになった。これが高野山女人堂の始まりといわれている。

小杉明神社は、この小杉を女人堂の鎮守として祀っている。

ぐるりん関西 HPより引用


想いと言うもの。

その想いと言うものは、時空を駆け抜けて、人々の心に響く。

私も今回こちらに再びお伺いして、小杉さんの想いに深く感動した一人だった。

そして4年ぶりにこちらにお伺いさせていただき、前回では理解することが出来なかった様々な気付きをいただけたことの幸運に、ただ感謝するしかなかった。

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