時計回りのお山めぐりでは、長者社からはひたすら登るような格好となる。
誰も居ない中歩いていると、次第に空にはお日様が顔を覗かせ
静寂に満ちたこの地を歩いていると、こちらは本当に霊山だということが分かるような気がした。
自然と言うのは、本当に美しい。
こちらが信仰のお山だと言う事も、この美しさを一層増して感じられる要因かも知れないと思いながら歩く。
普段は通勤で駅の階段を登るだけでも疲れてしまう、全く体力の無い私だけれども、何故か神社仏閣にお伺いする為に山に登ったり、長距離を歩くことは全く苦にならないのだったりする。
ちなみに前日比叡山と伏見稲荷大社を巡って歩いた距離をスマホで確認したら、軽く20kmを超えていた(笑)
やっぱり何か見えない存在がサポート下さっていて、楽に歩かさせていただいているような気がするなぁ、なんて思いつつ
とにかく歩く。
そして到着したのは、山頂。
一の峯・上之社神蹟
こちらに再びお招きいただいたことに感謝してお参りさせていただく。
今回早朝にお伺いしたということで、参拝客の姿はほとんど無かったのだけれども、こちらで至る所に貼られている貼り紙を見て、日中の様子が想像出来た(爆)
反時計回りで来た参拝客(と言うより観光客か)が、頂上を目指してこちらに辿り着き、一息付く為に座り込むことが多いのだろう。神域に座り込むなんて、と思ってしまうけれども、それが現実なのだろう。
こういう現実、それこそ本当に想像力の足りない人々が多いせいで、本来お参りに来るべく人々の足が遠のいてしまったりしたら、それこそ、神様は姿を見せなくなっちゃうよね、、、なんて思ってしまった。
人の祈りの力で、神様もお力を得ていると言う事。
人間だって、誰かに慕われていると思えばこそ、力が出てくるという場面も多いと思う。まして目に見えない存在の神様や仏様は、その祈りの力を糧にして、お参りする人々にご神徳やご利益を下さっているということ。
その祈りの力が無くなってしまったら、本当にご神徳やご利益なんて授けられないのし、全てのエネルギーは循環しているということが、みんな理解してくれれば良いのにな、ナンテ思ってしまった。
そして二ノ峰に辿り着く。
二ノ峰・中之社神蹟
こちらでもお招きいただいたことに感謝してお参りさせていただく。
そしてお社周辺を散策すると
前回お伺いした時にも目にしたカワイイ狐ちゃんを発見。
かわいいなぁ、と一人悶絶(笑)
そして今度は下って行くような格好で歩みを進めると
三ノ峰に辿り着く。
三ノ峰・下之社神蹟
こちらでもお招きいただいたことに感謝してお参りさせていただいた。
空はすっかり日中の体をなし、とても明るかった。
それと同時に、外国人観光客などの姿もちらほら見え、四つ辻に辿り着くと、晴れやかな京都の街が一望出来た。
そしてここからは、それこそお上りさんのような人々を掻き分けつつ、ひたすら降った。
伏見稲荷大社のお山めぐりについて書かれた本には、こんな記述がある
ともあれ、稲荷山のほかにはない特徴は、お塚に見える「私の神々」が無数に共在していることだろう。
これらは一見無秩序にも見えるが、神々の本地が稲荷大神だとすれば、稲荷山はまさに、すべての神々が中尊に帰一するマンダラ世界を形作していることになる。
われわれはそんな稲荷マンダラで神界めぐりをし、稲荷の子となって、再び朱の参道(産道)をくぐって再生するのである。
~『稲荷大神 (イチから知りたい日本の神さま)』より引用
そして参集殿に戻り、出発の為の身支度を整えながら窓の外を見る。
今回伏見稲荷大社リベンジ!と言う事で、お伺いしたけれども、人の居ない時間帯にお伺い出来たこともあって、自分自身とてもスッキリとした気持ちになれたと同時に、数々の本で読んだ伏見稲荷大社の素晴らしさというものを実感することが出来た。
そして参集殿をチェックアウトさせていただき、稲荷駅に向かう。
時間は午前10時前位だったけれども、それでも日曜日ということもあってか、稲荷駅ではディズニーランドに来たのかと思う位、沢山の外国人観光客や物見湯算の人々が降車する姿を見た。
そして、その信仰心の感じられない人々から発せられるものにより、伏見稲荷大社にいらっしゃったはずの神々が一時的に遠くに逃れてしまった、ような気がした。
気のせい、なのかも知れないと思いつつ、稲荷駅から奈良に向かう電車に乗車した。