横川からバスに飛び乗り、比叡山延暦寺西塔エリアに到着。
こちらは2016年4月に比叡山にお伺いした際に時間が無くて立ち寄れなかった場所だったので、いつかお伺いしようとは思っていたけれども、前回の比叡山訪問から3週間後にお伺いすることになろうとは、思ってもみなかった場所でもあった。
親鸞聖人修行の地
西塔エリアを歩くとすぐに、親鸞聖人修行の地に差し掛かる。
この西塔エリアというところは、歩くだけでも修行の雰囲気を感じる場所でもあった。
そして常行堂に差し掛かる。
常行堂
そして、その右にあるのが法華堂。
法華堂
この常行堂と法華堂は同じ形をしていて、廊下によって繋がっている。弁慶が両堂をつなぐ廊下に肩を入れて担ったとの言い伝えから、にない堂とも呼ばれているということで、通常は内部非公開ということだったけれども、この日はにない堂での坐禅体験が行われているということで、常行堂のお堂は開かれていた。
坐禅体験には時間が間に合わず体験出来なかったのだけれども、開いているお堂にお参りをさせていただけたことだけでも十分満足出来た。
そしてにない堂を抜けて、石段を降ると途中にあるのが恵亮堂。
恵亮堂
そして石段を降りきると、釈迦堂に辿り着く。
釈迦堂のあたりにはお地蔵さんもいらっしゃったので、思わず手を合わせてしまった。
釈迦堂(転法輪堂)
お堂の中に入り、こちらにお招きいただいたことに感謝してお参りさせていただいた。
そして御朱印を受けて、釈迦堂を後にしようとするも、こちらの一帯の静寂さにしばし我を忘れて見とれていた。
晴れてもいないのにオーブっぽいものが映るなぁ、ナンテ思ったりして。
そして、この地を後にして浄土院へと向かう。
雨が降っていたこともあって、霧が濃くなっていく中を一人歩く。
時間帯もあってか、こちらに向かう人の姿を見なかったので、ちょっぴり怖いなぁという気持ちになったのが正直なところだった。
そして浄土院に到着。
浄土院
こちら浄土院は伝教大師の御廟があるところ。
案内版には
ここは比叡山の開祖、伝教大師最澄上人のご廟所で、比叡山中で最も清浄な聖域です。
大師は一生を大乗戒坦院の独立に捧げられ、弘仁13年6月4日(822)中道院に於て、56歳で入寂されました。
弟子の慈覚大師円仁が、仁寿4年7月(854)この地に中国五合山竹林院を模してご廟所を建立し、大師の御遺骸を祀り、以来ご廟を守る僧侶を侍眞といい、一生山を降りない覚悟で昼夜を分かたず、厳しい戒律のもとに身心を清浄にして、生身の大師に仕えるように、今も霊前のお給仕に明け暮れしています。
またご廟前玉垣の辺りには、沙羅双樹と菩提樹が植えられ、極楽浄土の雰囲気がかもし出されています。
侍眞は、早暁より薄暮まで勤行と掃除勉学修行に励んで、12年間山を降りない籠山修行の内規に則って、生活しています。
と書かれていた。
恐る恐る中に入ると、その中は御廟(=御墓)とは思えない程の清らかさがあった。
こちらにお招きいただいたことに感謝してお参りさせていただいた。すると、とてもお優しくお迎えいただいたような気分になった。
この雨の中で参拝させていただいたということで、一層厳かな気分になったりして。
それそこ、聖地というような雰囲気に満ち溢れている場所だった。
そのまま西塔エリアのバス停に戻ろうと思ったけれども、浄土院前の石段を見たら、何も考えずにその石段を登っている自分が居た。
帰れなくなっちゃうかも、なんて心配しているもう一人の自分が居たけれども、何故か、どうにかなると思う自分も居た。
分からない場所を歩いているという、一種の恐怖感にさいまれながら歩いている自分が居た。
他に歩いている人が誰も居なかったということも一因だったけれども、とにかく行かなければならないという、使命感にも似たような気持ちだった。
そして山王院堂にもお参りさせていただいた。
山王院堂
山王院堂
詳しくは法華鎮護山王院といい、第六祖智証大師圓珍の住房で後唐院ともいった。
千手観音を祀るので千手堂とか千手院の名でも知られるが、圓珍座主の滅後百年、圓珍派と慈覚大師圓仁派の学僧の間に紛争が起こり、圓珍派はここから智証大師圓珍の木像を背負って大津三井寺(園城寺)へ移住したといわれる。
このお堂は歴史上きわめて重要なお堂です。
と書かれていた。
今回、西塔エリアを歩いていている間、ずっとある曲が頭の中を駆け巡っていた。
それは、人生は素晴らしいというけれども、自分はそうは思わないということ、そして自分を愛せないということも正直に語っている歌だったりする。
何でこの曲が、この西塔エリアを歩いている間に頭の中を駆け巡るのだろう?とは思ったけれども、それは、この地で修行された方々の想いとリンクしている部分も大きいのだとは思った。
人生は素晴らしいもんなんかじゃない。
けれども、その素晴らしくもない人生を、どう自分らしく生きていくのかということを決めるのは、己自身だということを、教えて頂けたような気がした。
自分が嫌いだということを否定しても、自分が好きになれる訳でも無く、自分が好きになれば、人生全て上手く行くかと言えば、そんな簡単なもんじゃないってもんで。。。
生まれてきたかった訳でもないこの人生だけれども、せっかく与えられた命というものを活かすために、もがき苦しんで試行錯誤して、自分の命が尽きる時に、この生き方で正解だったと思えるように生き切るということが、成功とか、幸福と言われることより、ずっと大切だと教えていただけたような気になった。