2013年5月に高野山に行かなければ、宮崎 奕保禅師の存在も知ることがなかっただろう、と思うと、不思議なものを感じる。そして永平寺を訪れることも無かっただろう、と。
初めて高野山に行った際に受けたワークショップで、金剛峯寺のお坊さんが「真言宗の修行は瞑想が中心で、修行と言っても永平寺などに比べたら厳しいものとは言えないけれど」とおっしゃっていたのがきっかけで、永平寺という場所に興味を持った。そして永平寺に関する書籍を読んだ。その中でも『坐禅をすれば善き人となる―永平寺宮崎奕保禅師百八歳の生涯』を読んで宮崎 奕保禅師という偉大な方がいらっしゃったということを知る。
この本の映像版というべきものが『永平寺 「104歳の禅師」・「修行の四季」 [DVD]』で、見たいなぁとは思っていたけれど、Amazonで購入しても¥6,000近い値段ということで、ちょっと躊躇していたけれど、今回思い切って購入してみた。
このDVDは2枚組で、一枚は2004年6月NHKスペシャルに放送された番組(「永平寺 104歳の禅師」)が収められていて、もう一枚は2001年3月にハイビジョンスペシャルで放送された番組(「永平寺 修行の四季」)が収められていた。
「永平寺 104歳の禅師」は『坐禅をすれば善き人となる―永平寺宮崎奕保禅師百八歳の生涯』を読むだけでは分からなかった、映像からにじみ出る宮崎奕保禅師のお人柄に思わず手を合わせてしまった。
そしてこのDVDにキセキレイが写っていて、その姿を見て、自分の初心を思いだす(元々このブログのタイトル”キセキレイスタイル”というのは、『座禅をすれば善き人になる』に描写されていたキセキレイの姿にインスパイアされて、私もキセキレイのように自らに与えられた物事を自然に実行する人になりたいと願って付けた物だったりするのです)
今回DVDを見て、宮崎禅師の口から発せられる言葉に、改めてスピリチュアルというものを考えた。
私は神社仏閣が好きで、一人でふらりと訪れてみるけれど、時々変な人に遭遇する。いわゆるスピリチュアルにはまっているような人たち。こういう人たちに限って、想像力が足りないのか?ご神木に抱き付いたり、拝殿の前を集団で陣取ったり、他人の迷惑を顧みない人が多い気がする。
今の日本では「スピリチュアル」という本来の言葉の意味とはかけ離れたもの、例えば引き寄せの法則とか、天使とかパワーストーンとか瞑想とか、そういった類のものを利用することで自分の欲を満たすことが、スピリチュアルであるかのような印象を受ける。
「人間の行いには全てその人の心が表れている」と、宮崎禅師のお言葉をDVDを通して聞く。自分自身も日々の行いを顧みて、宮崎禅師のように真理を実行できる人間になりたいと、改めて思った。
もう一枚のDVD「永平寺 修行の四季」は、映像で見るソフトな『食う寝る坐る永平寺修行記 (新潮文庫)』というカンジだった。この本を読んだきっかけも、高野山のお坊さんの発言だったけれども、確かにこの本を読むと永平寺の修行はかなり厳しい。厳しいを通り越してる部分もあったりして、これは修行なのか?と思う場面もあったりする(と言っても、この本は結構前の話なので、現在は違っているのでしょうが)
けれども、このDVDでは、普段見ることが出来ない永平寺の雲水の皆さんの修行の様子が窺えるし、インタビューに答えている雲水の皆さんの顔が輝いているのが印象的だった。
このDVDを購入して以来、ずっとこの2枚のDVDばかり見てる。そして何故か雑巾を手縫いで縫っている自分が居た。