2月の連休中関西に行ってきた。いつものところにお伺いするのが目的だったけれども、今回は時間もあったので久方ぶりに行きたかった比叡山に参拝することが出来た。
2月連休中というのに京都駅に降り立つと旅行客もさることながら人の姿も少なく閑散としていた。オミクロン株の影響なのか、1月始めにホテルの宿泊料金をチェックした際にはそれなりの価格が並んでいたけれども、直前に再びホテルの予約をしようと調べてみると連休中の京都では考えられないような安価が示され、半ば申し訳ないような気持ちになりつつ京都駅近くのホテルの予約をした。
そんな状況だからなのか、比叡山延暦寺にお伺いするため坂本ケーブルを利用したのだけれども、乗客は数える程しかおらず
この状況下でも通常通り運行していただけることに、却って申し訳ないような気分になった。
比叡山は事あるごとに訪れたい気持ちになる場所。
昔読んだ本の中にも、観光気分でも何でも良いから神社仏閣には訪れた方が良いという記述があったけれども、日常生活から離れた聖地という場所はやはり歩いているだけでも心が穏やかになれる。
「いやしろ」というのは、言葉の連想ゲームでいえば、人を癒すというふうに考えますよね。そういう意味では、神社仏閣は、観光気分でもなんでもいいからどんどん行ったほうがいい。かならず、天と地とのあいだを流れている非常に強い気の洗礼を受けるにちがいないからです。
~『気の発見 (幻冬舎文庫)』より引用
今回半日の比叡山訪問ということで時間は限られていたけれども、比叡山にお伺いするのならば浄土院には必ずお参りさせていただきたかったので、東塔エリアは後から参拝することにして一目散に浄土院を目指す。
3年程前、雪の振る中で浄土院を目指したことがあったけれども、その天候を懐かしむことが出来る位の晴天の下で、残雪を踏み締めながら浄土院へと向かう。
時折ハイカーとすれ違う程度で、参拝客の姿は無く
浄土院に到着した。
いつも静かな比叡山の聖地、浄土院。
こういう土地では自ずと自らと向き合う事になる。
以前この地にお伺いした際には、愛しい人は生きていた。
けれども今回はその愛しい人はこの世には居ないということを、何故かこちらで参拝させていただいた際にまざまざと感じてしまい、独りでに涙が溢れてきた。
存命中にもっと出来ることがあったのではなかったのか、
置かれた状況を察することが出来ずに、自分自身の感情のみを優先させて、傷つけてしまったのではないか、
いろいろな後悔の気持ちが堰を切ったように溢れ出てくる。
日常で蓋をして押さえていた、自分の底に溜まった澱の様な感情が放出された瞬間だった。
その私の愚かさを、最澄様は暖かく見守って下さっているような気がした。
この聖なる地に再び訪れることが出来たのもお導きなのだろう。
最澄心形久しく労して、一生此に窮まる
最澄様の辞世の句だと言う。
私が一番好きな歌はUVERworldの「ALL ALONE」という曲なのだけれども
“死ぬ間際に お金や物を欲しがる人なんて居ないでしょう?
僕達はそんなものを 探す旅をしているんだろう
きっと世界が無くした物だろう
正しい愛と夢
お前らに 言ってんだよ”
私の愛しい人は、お金や物を欲しがること無く、ただひたすらに私の幸せを願ってくれる人だった。
それは祈りだったのだろう。
そして祈りとは他者の幸せを望むことで、決して自らの欲望を叶えることではないということを、大切な人の死をもって改めて自覚し、また浄土院に久方ぶりにお参りさせていただいたことにより、改めて感じることが出来た。
全てが幸せであれ、ということ。