熏習・比叡山延暦寺

浄土院から東塔方面へ戻る。

途中山王院堂でもお参りさせていただき

法華総持院東塔に辿り着く。

そして今回の比叡山参拝で一番感動したところ、阿弥陀堂。


扉を開けて中にお邪魔すると、とても優しいお顔をされた阿弥陀如来様がいらっしゃった。

阿弥陀堂は主に先祖回向の法要を執りおこなっているお堂だということは知っていたけれども、実際に自分の近しい人を亡くす前と亡くした後では、お参りさせていただいた印象は異なって感じられ、まるで初めてお伺いしたかのような気持ちになる。

金色に彩られた阿弥陀如来様に亡き人の成仏を願う。

この願いが少しでも故人に届くようにと祈りながら。

比叡山は参拝する度にいろいろな気付きをいただける。

それは聖地であると同時にこの地では様々な人々が祈りを捧げており、その祈りが熏習のようにこの地に染みついているからなのだろう。

行者しかり、信者しかり、聖者しかり。

そろそろ閉門時間が迫ってきていたので、最後に東塔エリアに来たのならばお参りしておかなければならない星峰稲荷社へお伺いした。

私は天部の神様が大好きなのです。

そしてお土産を購入する為に延暦寺会館に立ち寄り(比叡山延暦寺でお土産を買うのならば延暦寺会館がベストだと思ってる)お線香や胡麻豆腐、美味しいオリジナルのお菓子「比叡」などを購入して、延暦寺会館脇にいらっしゃる厄除不動尊様にもお参りさせていただいた。

私の好きな本に信州善光寺大勧進第103世貫主である瀧口 宥誠様が書かれた『人のために生きればいい』という本の中にこんな記述がある。

わたしはこれまで、みんなの願いのために祈願し努力してきたせいか、自分の幸せを求めたことはない。けれど、特段、自分を不幸せと思ったこともない。

わたしにとっての幸せは何かといえば、伝教大師の言葉にもあるように、「貧しくても衣食住が足りていること」と、あとは、みんなが良くなってほしいという祈りを願いが神仏に通じたら十分。叡南祖賢師匠も人(弟子)を育てるのに一生懸命で、自分の欲を口に出したことが一度もなかったから、満たされているように見えたな。

叡南祖賢師匠の遺墨に「道心之中有衣食」(道心の中に衣食あり)という言葉がある。

わたしたちが小僧のころから日常生活の中で耳にタコができるほど聞かされてきた言葉だが、わかりやすく言うと、「坊さんは物に執着してはならない。ウソをつくな。ほんまもんの坊さんは、どんな破れ衣を着ていても、貧しい身なりをしていても相手には通じるものがある。だから上辺だけ着飾ってもあかん」という意味や。

また、「うまいこと美辞麗句を並べただけの説教や講演などは、しないほうがマシ。そんな説教を聞くより、この山に聳える大きな杉を仰いで、山に来た人が「ああ、比叡山に来てよかったな」と何かを感じるところがあれば、下手な説教よりはるかに効果がある」とも言っておられた。

だから、わたしも善光寺に来られた人には、善光寺を心と体で感じてもらい、「来てよかった。また来たい」と思ってもらえることが一番の願いやね。

~『人のために生きればいい』より引用

ここ1年余り、様々な辛い出来事の中で、何かに感動するということも忘れる位の状態だった。

もう感動するという力も無くしてしまったのかと思ったけれども、今回時間を取り比叡山で様々な場所で参拝したことで、自分の中に感動する力が残っていたことが非常に嬉しく感じたと同時に、自分が生きているという感覚を取り戻す事が出来た。

比叡山に参拝することが出来て、本当に良かった。

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