国宝殿を後にして、根本中堂へ移動。
いつものお方にもご挨拶。
そして久々にお伺いした根本中堂は、パッと見、根本中堂とは思えぬ姿になっていた。
前回根本中堂にお伺いしたのは、確か今年の初め頃。
これはその時の写真。
秋の訪れを感じさせる爽やかな気候につられるが如く、平日と言えどもほどほどの参拝客(観光客?)が居た。
静かに参拝するように、と言った案内もあるのだけれども、やはりこういった時期はおしゃべりしながら参拝する人の姿が多い。
昔はそのことにイチイチ目くじらを立てて、怒りまくっていたけれども、結局損をするのはそういった行為をしている人なのだと分かってからは、そんなに怒りと言うものは感じなくなった。
ただ、祈っている人のそばでは、やはり私語は謹んで欲しいものだと思いつつ。
根本中堂の薬師如来様やその他の仏様に再びお招きいただいたことに感謝してお参りさせていただいた。
そして、根本中堂の屋根の高さまで登って見学ができると言う、修学ステージへ。
こちらは写真撮影OKということで、写真を撮りまくってしまった。
根本中堂の長い歴史からしたら、この修学ステージがあるという期間も一瞬のようなものなのだろうと思いつつ。
そして根本中堂を後にした。
そして久々に大黒堂にもお伺いさせていただく。
靴を脱いで中にお邪魔して、お招き頂いたことに感謝してお参りさせていただいたのだけれども、こちらでは誰も居なかったので、静かに三面大黒天様と向き合うことが出来た。
そしてお堂を出て、ふと授与所を見ると、御朱印を求める人々の姿を目にした。
お参りもせずに御朱印を求める人って、なんだろう、と思いつつ。。。
最後に大講堂にお邪魔する。
こちらには私が尊敬してやまない宮崎奕保禅師様のお言葉が、道元禅師様の傍に掲げられている。
そのお言葉を再び目にして、己の器の小ささを改めて実感してしまったと同時に、浄土院で感じたものが、このお言葉に通じているように感じてしまい、神様や仏様は必要な時に、必要なメッセージを必ず与えてくれるものだということが、今まで以上に理解出来て、その有難さに一種の畏れのようなものを抱いてしまったのは、確か。
起こってしまった出来事というものを、どう捕らえるかは、己の心次第。
その心を正しい方向に導くのが、信仰心というものではないのだろうか、と。
こんな考え方は、やりたい放題にしていれば幸せになれる方法とやらが満ち溢れている、今の世の中には全く受け入れられないのだろう。
比叡山を後にする。
またいつか、この美しい地にお伺い出来るように祈りながら。