成田山境内を歩いていたら、とても懐かしい雰囲気が漂ってきた。
出世稲荷社と成田山の境内図には書かれていたけれども、はっきりと感じるのは荼枳尼天さまの雰囲気。
出世稲荷社までの石段を登ると、さらにその雰囲気は増してきた。
お社近くには、荼枳尼天様にお供えする供物が販売されているのを目にする。
もう3年前位の話になってしまうのだけれども、初めて豊川稲荷東京別院にお伺いして、それから約1年間、月参りを欠かさなかった。
荼枳尼天様の霊験はあらたかで、そして熱心にお参りすればするほど、お力を貸していただけると感じていた。けれども、月参りをして1年が経過しようとしていた時、ふと、自力では何も出来ずに荼枳尼天様のお力だけにすがっているだけのように感じてしまい、1年間お力をお授けいただいたことに感謝して、きちんとご挨拶等を済ませて月参りを終了させていただいた。
自分自身を誇れるようになったら、またお伺いしようとは思っているけれども、まだまだ豊川様にご報告する程の自分にはなれていないと思っているので、それ以来、未だにお伺い出来ていない。
けれども、こちらには何故か呼ばれるようにふらふらを足が向いている自分が居たという訳でして、、、
荼枳尼天堂(出世稲荷社)
鳥居を潜り、石段を登ると眷属さんたちが沢山いらっしゃった。
そして拝殿前に到着した。
その拝殿前にお供えされている油揚げの枚数からも推測されるように、信仰というのにふさわしい場の雰囲気を感じた。
ご挨拶だけさせていただき、拝殿回りを歩く。
歩いていると、荼枳尼天様にお願いすればいいのに、と言う御眷属さんたちからの声が、あちらこちらから聞こえてくる。
私は自己評価が低いせいもあるのかも知れないけれども、人に甘えるとか、頼るということがとても苦手な部分がある。
けれども、頼るということは、即ちその人を信頼しているからこそ出来る行為だということを、こちらにお伺いして、お教えいただいたような気になった。
それこそ、神様や仏様に頼るということも、その神様や仏様を信頼しきっていなければ出来ないことであるということを。
まずは自分自身を信頼すること。
それが出来た暁には、また荼枳尼天様にきちんとお参りすることが出来る日も来るのだろうと思いながら、こちらを後にした。
出世稲荷社からの石段を降る。
そして、そろそろ御護摩祈祷の時間が迫ってきていたので、大本堂へと向かった。