期待なんかしていない

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今度永平寺に行くので、今はもっぱら下調べで読書ばかりの日々を送っている。

そんな中でも、『坐禅をすれば善き人となる―永平寺宮崎奕保禅師百八歳の生涯』を繰り返し、繰り返し読んでいる。

何度も書いているけれども、このブログの名前は、この本の中に描かれていた雲水さんたちとキセキレイが自分に与えられたものを、一生懸命にただ黙々と行っている姿にインスパイアされて、私も、私に与えられたこの命を活かすために出来ることを行っていきたいと願って付けたものだったりする。

宮崎 奕保禅師様というのは、自らを律して生きてこられた方で、普通の人ではとても真似できないと思う。この本を読むと禅師様は他人にも厳しかったけれども、それ以上に自分に厳しい方だったと、ひしひしと感じることが出来る。

そんな禅師様に一歩でも近づけるようになりたいと日々生活を行っているけれども、私のような凡夫では、周りに惑わされることも多い。

仕事でも私はこんなに頑張っているのに~!と、自分勝手にストレスを溜めているのは分かっているけれども、周りが仕事をほとんどしない中で、一人もくもくと大量の仕事を片付けていくということが、虚しく感じることが多かった。

ただ、禅の考えを学んでからは、それも自分の欲というものだったのだと気付かされた。

そして、ちょっと冷静になって自分を客観視している自分に気付いた。

誰かに優しくすると、見返りを求めて「ありがとう」という言葉を期待している自分。そして、その「ありがとう」という言葉が無かった時、その優しく接してあげた人に対して、失礼な奴だ、と判断を下してしまう。その「ありがとう」という言葉を期待している自分は、人というものをとても信頼していたのだと。誰かに何かを施せば、普通の人間というものは、感謝の言葉を返すものだと。

その「普通の人間」ということを、相手に期待していること、それが欲だったと思い知らされた。

誰に褒められる訳でも無く、ただ日常の自分の行いを正しくすること、それこそ滝に打たれたり、山を登ったりすることよりも、大切な大切な修行なんではないかと、この本を読んで改めて思い知らされた。

「善いことを黙って実行するのが、天地自然の法則だ。善いことをして人が褒めてくれないと不服をおこしたり、そういうのは善いことにはならない。黙って実行して、報酬を求めない。今、ボランティアということを言うが、ボランティアというのは、正しいことを黙って実行して報酬を求めないという、仏様の働きのことだ。

お釈迦様の教えというものは、大自然を体とし、大自然を心としたいわゆる経験者、それを仏と言うんだ。死んだ人間を仏と言うんじゃない。そして、いわゆる大自然というものはかえて言うたならば、真理だ。その真理を黙って実行するというのが、大自然だ。誰に褒められたくも思わんし、これだけのことをしたら、これだけの報酬がもらえるということもない。時が来たらば、ちゃんと花が咲き、そして、褒められても、褒められんでも、すべきことをして、黙って去っていく。そういうのが実行であり、教えであり、真理だ」

今日は自分の仕事ではないけれども、サボっている人のカバーをさせられた。けれども、仕事をサボっていた当の本人からは、私がカバーしたことに対する感謝の言葉は無かった。しかし、それで落ち込むとか苛立つということは無い。ただ、その人間が、その程度の人間だと言うことが分かっただけの話だから。

こういうのは他人から見れば、良い人ぶってと思われるのかも知れないけれども、以前読んだ本に書かれたことが影響しているのかも知れない。

修行僧だった頃、先輩に「仏の○○さん」と言われた人がいた。九年間一緒だったが、とにかくまったく怒らない。怒った素振りも見せない。

ーそんな人も禅道場にいるのか?

事実いたんだ。一度だけ、新入りの修行僧が押入れに隠れて寝ていたとき、少し強い口調で「何をやってるんだ」と注意したことがあった。そうしたら、たちまちのうちに寺中に噂が広まり、ただ「○○さんを怒らせた」というだけの理由で、新入り修行僧は監督機関の古参僧に連行され、さんざんに油を搾られていた。

この先輩が道場を去るとき、僕は訊いてみたんだ。

「先輩はどうして怒らないでいられるんですか?怒るという神経回路が欠けているんでうか?」

そうしたら先輩はニヤっと笑って言ったね。

「直哉さんは親切だからね」

ーなんだ、それ。

まあ、聞け。

「直哉さんは親切だから怒るんだよ。相手の誤りを正し、善い方向に導きたいという気持ちがあるから、怒ることができる。

でもね、私にはそういう親切心がない。いいじゃないか、放っておけば。堕落するのは本人だけだ。誰も困らない。後で困るのは彼だけさ」

ーいや、それこそ恐い人だな。

だろう。僕は別に親切なわけではないが、この話で肝心なのは、怒る人間には「正しさ」に対する確信がある、ということだ。

『善の根拠 (講談社現代新書)』より引用

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