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今『善の根拠 (講談社現代新書)』という本を読んでいる。
作者は南 直哉さん。
一回読み終わったけれど、また最初から読み直している。
それだけ、深い本なのです。
私は、このブログでは五月蠅い位に、お花畑のスピリチュアルが大嫌いだと語っているけれども、結局お花畑のスピリチュアルって、人を悪い方向に導くものだとしか思っていない部分が大きい。
いわゆる闇の力っていうんですかねぇ。
ワクワクすることをすればOK、とか、
天使にお任せすれば大丈夫とか、
引き寄せの法則、とか
そういう類のやつ。
得てしてそういう事を語っている人は、一見とても優しそうな人に見えたりする。
私もむかーし、ヒーラーなんて目指していた際に、師匠だと思っていた人から、そういった類の事を教え込まれていた。
自分を愛しなさい、とかね。
師匠と思っていた人の前では「そうですよね、今まで自分を認めるということをしなかったから、引き寄せの法則で、自分を卑下するような状況に追い込まれていたんですよね」と語っていたけれども、どこか、遠くの本当の自分は「そんなもんじゃない」と冷静に判断を下していた。
どこか、遠くの自分と思っていた自分が、本当の神様や仏様の声だったのだとは、今では思える。
甘い言葉ばかり囁く人には、注意が必要ということで。
本当に、その人の事を思っている人ならば、間違ったことをした際には、キチンと注意をしてくれる。
そんなことを、本を読んでいて、ふと思い出した。
修行僧だった頃、先輩に「仏の○○さん」と言われた人がいた。九年間一緒だったが、とにかくまったく怒らない。怒った素振りも見せない。
ーそんな人も禅道場にいるのか?
事実いたんだ。一度だけ、新入りの修行僧が押入れに隠れて寝ていたとき、少し強い口調で「何をやってるんだ」と注意したことがあった。そうしたら、たちまちのうちに寺中に噂が広まり、ただ「○○さんを怒らせた」というだけの理由で、新入り修行僧は監督機関の古参僧に連行され、さんざんに油を搾られていた。
この先輩が道場を去るとき、僕は訊いてみたんだ。
「先輩はどうして怒らないでいられるんですか?怒るという神経回路が欠けているんでうか?」
そうしたら先輩はニヤっと笑って言ったね。
「直哉さんは親切だからね」
ーなんだ、それ。
まあ、聞け。
「直哉さんは親切だから怒るんだよ。相手の誤りを正し、善い方向に導きたいという気持ちがあるから、怒ることができる。
でもね、私にはそういう親切心がない。いいじゃないか、放っておけば。堕落するのは本人だけだ。誰も困らない。後で困るのは彼だけさ」
ーいや、それこそ恐い人だな。
だろう。僕は別に親切なわけではないが、この話で肝心なのは、怒る人間には「正しさ」に対する確信がある、ということだ。
私は別にこの本に出てくる、先輩が間違っている人だと言いたいわけではない。
ただ、職業上、甘い言葉をささやく人々は、概して、頼ってくる人々に対して幸せになってほしい、なんて言う気持ちは微塵もないのではないか、ということを改めて感じた訳でして。
それを証拠に、職業上甘い言葉をささやく人々は、お金を支払わなくては、甘い言葉はささやいてくれませんからね。