先日、埼玉県の紅葉が美しいことで知られる古刹・平林寺に行ってきた。
2017年に建長寺にお伺いした時に半僧坊様の凄さに圧倒され、日本の三大半僧坊のひとつと言われてる埼玉の平林寺にもお伺いしなくては、と思っていたのだけれども(日本の三大半僧坊は静岡の方広寺、鎌倉の建長寺と埼玉の平林寺)なかなか時間が取れず、やっと念願叶ってお参りすることが出来た。
平林寺の正式名称は「金鳳山 平林禅寺」と言い、臨済宗 妙心寺派の別格本山であり
境内全域が禅の修行道場とのことで、入り口には入山者心得が掲示されている。
入山料500円を受付で支払い、総門を潜る。
参拝したのはGWの4月30日。
GWということで多くの参拝客の姿があるのかと思いきや、訪れた時間が午後を過ぎていたということもあってか私以外の参拝客がおらず、総門を潜ると禅寺特有の凜とした静寂の世界が広がっていた。
新緑の美しさと境内を流れる野火止用水のせせらぎの音、そして時折聞こえてくる鳥たちのさえずりは、都心から1時間程度で来れる場所とは思えないほどだった。
総門をはじめとする藁葺き屋根の伽藍四棟が禅寺典型の一直線上に配されている。
山門もそれはとても美しい。
山門を潜ると仏殿があり
参道沿いにはさざれ石や
大きな高野槙があり
仏殿前右側に戴渓堂というお堂があった。
創建は正徳六年(一七一六)で堂内に観音菩薩並びに独立禅師の像を安置する。独立禅師は承応二年(一六五三)来朝した明僧である。
扁額は黙雲和尚の書である。
と書かれていた。
私は独立禅師というお方の存在を知らなかったので調べてみたら
16世紀末から17世紀後半にかけて活躍した禅僧です。20代半ばの頃に父を亡くしたことをきっかけに医術と儒学を学び始め、終には明王朝に仕官しました。しかし政治の混乱を嫌い、医術で生計を立てながら隠遁生活送り、時代が清へと移り変わるころには日本に渡来しています。やがて、同じく中国から渡ってきた禅僧・隠元隆琦のいた長崎県の興福寺にて出家し、『独立性易』と名乗り始めました。
医術だけでなく書画や詩の才能にも優れていた独立性易は、隠元隆琦に付き徳川家綱に謁見した際にその作品が高く評価されています。体調不良で長崎に戻った後も書や篆刻作品を多く制作し、その際に明時代の新たな篆刻技法や印法を日本に伝えました。また、60代後半の頃からは偉業に専念し、各地を回りながら貧民もそうでない者も差別せずに施術してまわったと言われています
〜Gallery翠 HP より引用
そして、独立禅師様のお堂が何故平林寺にあるのかと言えば
またこの時、知恵伊豆で知られる老中松平信綱の目にとまった独立は、招かれて埼玉県新座市にある平林寺にしばらく滞在しました。この平林寺には、独立の弟子 深見玄岱(高玄岱・篆刻家)の発願で建てられた戴渓堂があり、独立の像や碑が祀られています。
〜 岩国医療センターだより 2019.2 より引用
とのことだった。
こちらにお招きいただいたことに感謝してお参りさせていただいた。
仏殿へ向かう。
釈迦如来坐像がお祀りされている仏殿。仏殿より先の中門と本堂は修行区域のため、通年立入不可とのこと。
仏殿前でお参りさせていただいた。
そして順路に従い歩いていくと放生池があり
放生池の中の島に弁天堂
昔弁天信仰を調べていた際に、平林寺の弁天堂は空海さんに関連しているといったことが書かれていた記憶があったけれど、今その本が手元に無く、ネットで調べても何も出てこなかった(今度国会図書館にでも行って調べてこよう)
弁天様にもお参りさせていただき、順路を歩く。
禅堂の案内板があり、雲水さん達の生活の時間割が書かれていた。
立入禁止のため遠くから見ることしか出来なかったけれども、そこには確かに禅寺の修行道場に相応しい、余計なものをすべて削ぎ落としたような純粋さが薫り立っていた。