長い目で見れば

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photo credit: Ookuni Shrine via photopin (license)

仕事先の人とランチに行った。お魚の定食の美味しいお店。今日のメインはサンマの干物。一緒に行った人から「キセキレイさんはお魚食べるの上手ですね」と感心された。

子供の頃、鬼の様に躾けられたからなぁ、と思いつつ、一緒に行った人のお皿を見たら、鳥が啄んだようなカンジで食べ散らかされていた。

こんなことでも感心される時代なんだなぁ、と改めて思ったりして。

私の親は異様に食べ方に厳しかったので、テーブルに肘をついて食べるなんてことは言語道断、自分の口をお皿に近づけて食べようとすれば「犬が食べているみたい」と罵られ(笑)お茶椀にご飯粒が残っていようものならば、「目がつぶれる」と怒られていた。

食事中に話すのも、口の中に食べ物がある状態で話そうものならば、行儀が悪いと叱られていたので、小さなころは食事の時間というのは、ある意味恐怖の時間だった。

今、こんなことをする親御さんなんて、ほとんどいないだろうと思う。

けれども、私は小さいころに食べ方を異様に注意されたおかげで、どこに食事に行っても恥ずかしい思いをすることは、ほとんどない。

長い目で見れば、私はとても良いことを親に教えてもらっていたのだと、今の歳になって感謝するばかりだったりする。小さい頃は、テーブルに肘ついて、口の中に物があっても全然気にしないでお喋りしながら食べているお友達がうらやましかったけれども、今となってはそんなことは全然うらやましくもないわけで。

今度出雲に行くので、いろいろな本を読んでいるのだけれども、自然と大国主大神様について学ぶことも多い。

大国主大神様は、様々な逆境を乗り越えた方だったりする。

だからこそ、多くの人々の崇敬を受けるに値する方でもある。

その逆境の最中では、死さえも経験されているけれども、見事によみがえりを果たしていらっしゃる。

『出雲大社 (楽学ブックス)』のコラムにはこんな記述がある。

才能や魅力とは突出か欠落、つまりゆがみである。円満な人格は素晴らしいが、社会を震わすような才覚のほとばしりは期待できぬ。歪曲があればこそ、独特の視野を持つことができ、独特の解釈をすることができる。その独特さがいい方に出れば、世に輝く才能となるのだ。

しかし、独特な感覚が災いすることも多い。若いころにいじめに遭う人などは、ほぼ全員が才能を持つ人といっていい。

いじめというのは、ゆがみを目指して押し寄せる。個性や才能が豊かな人は、ほとんどいじめに遭うものだ。才能や個性的な魅力がありつつ、力のない人がいじめれらるのである。子ども時代にいじめられた人は、自信を持つべきである。才能や魅力の証なのだから。

非力でありながら才能の片鱗を見せ、姫神に好かれていた大己貴が、八十神の嫉妬を買い、いじめられたのは当然なのだ。それが、祖先である須佐之男尊からビシビシ鍛えられ、実力をつけ、さらには権力も手にして戻ったのだから、才能と魅力たっぷりのモテ神になったのもまた当然なのである。

私個人のことで言えば、前に居た会社では、同僚女子3名から執拗なまでの嫌がらせを受けていた。

その会社に在籍していた時に、このブログを始めた。

とにかく、会社以外での活動の場を作らなくては、という想いにかられたのが大きかった。

彼女たちがどうでも良い噂話などに明け暮れている間、私は導かれるように伊勢通いを始めて、ほぼ毎月東京から伊勢に宿泊して通っていた時期もあった。

そして神様や仏様のことを勉強しながら、このブログを綴っていった。

あの時は苦しんでいたけれども、苦しんでいたからこそ、その状況から何とか脱出しようといろいろ試行錯誤を繰り返した。

そして、今、こうやってこのブログを書いている。

現在、ブログ名を検索してまでこのブログに来ていただく方も多数いらっしゃる。そして、多くの人々に読んでいただけることに感謝しながら、自分が執拗に嫌がらせを受けた時期というものが、必要な時期だったと思えたりするのだった。

あの時期がなければ、このブログも存在することが無かったのだと考えると。。。

長い目で見れば、嫌なことや、辛いことも、全部自分を良くするためのものだったと、改めて気づかされたりした。

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