40歳を過ぎると魔法使い

昔お世話になった人から「結婚か、それとも神様仕事を取るか?」という選択を迫られた際に、神様仕事を取ったので結婚しなかった、という話を聞いたことがあります。それを知人に話したら「何で神様仕事をしている人は、結婚できないんだろうね」とボヤいていたのでした。彼女も私もお互い結婚していない同志なので、常々ギモンだったのです(笑)

確かに、神様に仕えている人は結婚しないという話は良く聞きますよね。
お坊さんも明治までは妻帯は許されていなかったし、斎王も天照様に仕える為に選ばれた未婚の皇族女性だった、ということも考えると一理あるかも。私が尊敬して止まない宮崎禅師様も生涯不犯を貫かれたし、元・内掌典の高谷 朝子様もご結婚はせずに、57年間神様へのご奉仕をされていたし。

先日読んだ『日本人はなぜ狐を信仰するのか』を読んでいて、巫女さんに対する考証が書かれていたけれど、そこには

豊穣の神様を祀るところでは男女原理の結合という性のイメージが多用され、しばしば象徴的にではなく現実に性の儀式が行われた。柳田国男の『巫女考』では稲荷に限らず神社の巫女は娼も兼ねていたということになるのだが、娼の前にまずは、巫女としての役割として、子どもを産むという人間的生殖行為とは異なる意味での、魔術的・呪術的・儀式的と言える性が活用されていた。そしてこの性的な魅力度も加えて、神社にはアイドル化された巫女が数多くいた。テレビも雑誌もない時代、神社と芸能は結合し、イベント会場のような傾向を持っていたのである。

この娼と巫女が一体化したものとして、古代バビロニアのイシュタルの巫女とかアポロンの巫女がいる。また、古代ローマのヴェスタの乙女は、純潔性を示していたが、現実にはこの処女性は、天の力を受け取るためのものであり、性を封印していたのではなく、普通の男性を、交わる対象としては認めなかったということだ。

~中略~

つまりは、聖娼性と処女性は表裏一体なのだ。

ということで、巫女という存在は神様と聖なる交わりをすることで、神様が憑くとみなされていたということが述べられていました。

神様仕事をしているという人たちも一種の巫女と考えると、結局は神様に仕えていることと同じになる。そして、結婚するということは、つまり神様以外の生身の人間と交わることを意味するわけであり、そのことによって神様の言葉が降ろせなくなるから、いわゆる神様仕事をしている人が結婚している率が低い、とも考えられるのでした。

この本を読み進めていくうちに、最後の方にこんなことも書いてあったのでした。

男女関係に縛られている人は気持ちの上で、引きずられる相手がいるからキレが悪い。しかしそれに引き寄せられていない人は、単体の強さというものがあるという考え方である。

~中略~

中世の修道院で、また処女性を強制された巫女たちが、より上位の神的な力の受け入れの際に、忘我とエクスタシーを体験することはしばしば言及される。しかしもし男女関係に興味が行き過ぎれば、相手の思惑や感情に、すなわち地上的な事柄に振り回されることになるのである。

リアルな恋愛が出来ない草食男子という言葉が世に出て数年経っているけれど、それは神様の言葉を聞きたいと思っている男子が多いからかもしれませんね(笑)

おたくのみなさんも、二次元のものに夢中になって、リアルな人間との交わりを拒否しているように見えることを考えると、都市伝説(?)で、30歳まで女性経験の無い男性は妖精になって、40歳を過ぎると魔法使いになると言われていることも、あながち間違ってないかも、ナンテ思ったりしちゃったのでした(笑)

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