『坐禅をすれば善き人となる』

坐禅をすれば善き人となる―永平寺宮崎奕保禅師百八歳の生涯』はいつ読んでも感動して、自分の行いを顧みる事が出来る本。

8年にわたる取材で、「現代の道元禅師」の言葉が甦る……
「NHKスペシャル」で感動を呼んだ、坐禅にかけた一生の傑作評伝

2008年1月5日早暁、2万6000人の僧を擁する曹洞宗の大本山永平寺貫首であった宮崎奕(えき)保(ほ)禅師が、108歳(数え年)で亡くなりました。93歳で貫首に就任し、永平寺歴代最高齢の貫首として15年間を勤め上げた高僧でした。「現代の道元」と謳われた禅師の生涯を、8年にわたって追ったジャーナリストが綴る感動の評伝です。
~Amazon 内容紹介より引用


昨年高野山に行った際に、ワークショップで高野山のお坊さんが「修行と言っても永平寺などに比べたら厳しいものとは言えないけれど」と言ったことがきっかけで、永平寺の事が知りたくて、読んだ本だった。そしてその数か月後には永平寺にお伺いしていた

久しぶりに読み返しても、やはり良い本だと改めて認識した。このブログは、元々「キセキレイ」という名前で始めたのだけれど、この名前にしたのも、この本の影響だった。キセキレイと雲水が、自分に与えられたことを、一生懸命にただ黙々と行っていた、という描写があって、私もそのように、自分に与えられた使命を遂行できる人物になりたいと願って。

この本は曹洞宗大本山永平寺第78世貫首の宮崎 奕保禅師の生涯について書かれている。この本を読み返すたびに、宮崎 奕保禅師の生き方こそ、今の時代に必要とされているものだと思えて仕方がない。

印象に残ったセンテンスの数々。

坐禅をすれば善き人となる

「道元禅師様は、『坐禅をすれば善き人となる』と仰っておる。善き人になるということぐらいは、子どもでも言うし、知っておる。悪いことをするな、良いことをせよ、ということぐらいは、誰でも知っておる、三つの子どもでも。けれども、八十になっても行うこと難しと言う。何で行うこと難しと言うかというと、我欲といって自分というもの、我というのが邪魔しておる。無我になれないんだ。しかし、座禅をすると道元禅師様が言うように、『身心脱落』する。抜け落ちると書いてあるように、そういう我欲が無くなるんだ」

 師匠の死に接して

「学ぶということは、真似するというところから出ておる。一日真似をしたら一日の真似や、それで済んでしまったら。二日真似して、それであと真似をせなんだら、それは二日の真似。ところが一生真似しておったら、真似がホンマもんや。だから真似が真似になってしまわんようにすること、それが大事や。そしてそれは、口で言うより実行や。老僧は口だけでない。実行で示した。だから、百歳を超えてわしは、今でも真似や。老僧、小塩誾堂和尚の真似をしておるだけや」

 座禅とは何か

「頭で考えている間は迷いだ。観念の仏法だ。世の中はみんな頭で考えておる。体でしない。しかし、頭でなんぼ立派なことを考えても、口で行っても、実行しなくては何の意味もない。道元禅師様までは、仏教を伝えた。けれどもいくら口で説いても、それは解釈にすぎない。それを実行して見せたのが座禅。だから道元禅師様は、仏道を伝えたんだ。すべてが道(どう)でなくてはならない。剣術ではなくて、剣道でなくてはいけない。剣術であったり、柔術であってはならない。術は手先だ。道は体で実行するということだ。だから、道元禅師様は、体で仏法を伝えたんだ。道元禅師様は『只管打座』と仰った。それは、ただ坐るということや」

生活すべてが禅

「『脚下照顧』。足下を顧みろという言葉があるが、それは、自分の正しさをいつも保つということや。やはり、いつも自分を失わないということ。人間というのは、身心は一如(一つ)だから、体が真っ直ぐであれば心が真っ直ぐになる。だから、足下が乱れていれば心も乱れる。身心はいつも一つでなくてはいけない。思うことやいうことが真っ直ぐでも、いくら立派なことを言っていても、実行することがダメだったら、それはインチキだ」

座禅と心と欲望

「今は皆、モノに捕らわれておる。精神的なことを忘れておる。モノがあるから欲が起きる。形のないもの、心は不足せんように思っている。
やはり、モノがあってこそ生活ができる。人間の欲望をかなえてくれるものは、やっぱりモノや。しかし、その欲が強欲であったり、多欲であったりするところに弊害がある。その欲をどういう風にさばいていくかというのが、人の道や。人間はどういう風に欲を制していくかということが宗教や。
しかし、今はその宗教心が欠けてきたと言ってもいい。とにかく欲が邪魔しておる。多欲の人は、求めが多いがゆえに憂いも多いんや。お釈迦様の『遺教』の中にそう書いてある。
やっぱり、欲を克服する術(すべ)を覚えなくてはいけない。それが座禅だ。座禅というのは息と一つになることだから、欲の起こるスキがないんや」

仏の命を大切にする

「仏道修行というのは、この世に生を受けて、今ここに存在できるということに感謝するところから始まるとも言えるが、さらに言えば、やはりすべてのものを大事にせにゃいかん。この世のあらゆるものが、我々を支えてくれとんのやから。
人間は、目に見えないものが我々を助けてくれておるということを、もっと信じにゃいかん。今の者は、目で見えるものだけしか信じない。だけど、感謝ということは大事や。すべてのものが自分を支えてくれておるという大きな恩を受けて、我々は今ここにおるんやからね」

目に見えぬ電波

「目には見えないが、本当はこの空間には、電波が満ちとる。例えば、誰かが悪い心を起こしたら、悪い心の電波が起こっとんのや。逆に、善い心を起こしたら、善い電波が起こるんや、目でそれは見えんけれども。
そして、目で見えんけれども、悪い電波が世の中に満ち満ちたら、災いが起こるのは当たり前や。反対に良い電波が起こって、善い電波が世間に充満してきたら、世の中が治まる。だから、人が見とらんからと言うて、悪いことをしてはいけん。人が見ておっても見とらんでも、天知る、地知る、我知るや。そういう電波がちゃんと自然に現れてくる。だから、一人でおっても、ちゃんと心を正して、いわゆる真理に沿うて生活するのが大事なんや」

この本は読みやすいけれども、数々の言葉に重みがあって、読む度に新しい発見があります。永平寺、またお伺い出来たら、と思います。一般の人でも参禅できるらしいけれど、、、これは私にはまだ早いかな?と思ってます(笑)

<追記>
その後、御縁がありまして、一泊二日と言う形ですが、永平寺に参籠させていただくことができました。本当に素晴らしい場所でした。永平寺。

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