言葉の裏に隠されたもの~『猿之助、比叡山に千日回峰行者を訪ねる』を読んで

もう3年くらい前になるのか。

紀伊山地の霊場と参詣道が世界遺産に登録されて10周年ということで、「お伊勢さんからもうひとつの聖地へ~熊野古道」という番組がテレビで放送されていた。そして、私がたまたま目にした「熊野本宮大社」の回ではナビゲーターが市川猿之助さんだった。

最初は何気なく見ていたのだけれども、番組内で語られる市川猿之助さんの神仏に対する造詣の深さに思わず紙を取り出してメモりながら番組を見てしまい、そしてブログの記事にしてしまったくらいだった。

去年初めて比叡山にお伺いしてからと言うもの、良く分からないけれども、ちょくちょく比叡山にお伺いしている。

そしてお伺いして初めて無動寺明王堂というお堂の存在を知り、何度かお伺いする機会に恵まれた。その無動寺明王堂の現在の輪番でいらっしゃる光永大阿闍梨様関連の本の中に『猿之助、比叡山に千日回峰行者を訪ねる』という本があった。

本の帯には「仏道と芸道が交わるところ」と言うキャッチコピーがあった。

神仏に造詣の深い猿之助さんと光永大阿闍梨様の対談ということで、ワクワクしながらページをめくったけれども、読後の感想としては、光永大阿闍梨様の良さが伝わりにくいかな、と思った。

猿之助さんの仏教や神道に関する知識はこの本を読むだけでも、半端ないと思える位凄くて、仮に私が神社仏閣巡りを始めた頃に読んだとしたら、殆ど理解出来ないと思える程だった。

猿之助さんが多くを大阿闍梨様に語っていることに対して、大阿闍梨様はある意味聞き手に回っているような印象を受ける位、猿之助さんは饒舌にこの本の中で語っているような印象。

けれども要所要所で大阿闍梨様は真実を語っていた。

阿闍梨:行というのは、最初にこういう行でなければならないというような理想というか、ともかく先入観があるとそれが邪魔して、成就すべきことも果たしえないんじゃないかっていことなんですね。自分の中での勝手な理想像が挫折の大本になってしまう。

私の場合、そんな理想もへったくれもなくて、まったくゼロからのスタートでしたから、千日回峰行のこと自体知りませんでしたし、ましてや、師匠がその千日回峰行中であることも知らなくて。もちろん行への憧れもありませんから、それが良い方向へと作用したのかもしません。妙に理想を抱いてしまっているというか、どの世界でもそうですけど、なにごとも理想を抱くのは何かで情報を得て、そういうふうにイメージが固定されてしまうわけですけれど、現実は頑としてあるんです。

逆に、ここで目の当たりにさせてもらったのが、申しわけないですけど、全て現実なんです。

表も、華やかなところもあれば、上下関係がお坊さんの世界でははっきりとしているので、そういう意味では厳しい部分もあります。そういう場面を全部、垣間見せてもらった上で、私は行に入らせていただいているので。

ですから、そういう意味では、下手に作り上げられた観念は要らない、と。

猿之助:まさに、実践本位の精神ですね。

阿闍梨:そうですね。何も知らずに行くのが一番かなと思います。

行にしても、先入観を持ってやってしまったら大なり小なり、あっ、ちょっと違うかも…そう思った時点でその理想というのはちょっとずつ崩れていく方向に行ってしまう。

要するに、結果的にプラス発想からマイナス発想に転換してしまうことになるのではないですか。これだとシンドイ。

逆にマイナスからプラスへの転換はわかるんですよ。そのほうが創造的だし、持続的ですから。だから考え方にしても基本的には中途半端なプラス思考は、私は要らないと思ってやっているんです。

猿之助:そうか、中途半端なプラス思考、それはかえって足を引っ張る。

この前読んだ草薙龍瞬さんの『これも修行のうち。 実践!あらゆる悩みに「反応しない」生活』という本の中でも、下手な理想(妄想)を描くことの副作用的なものが書かれていたことをふと思い出してしまった。

自分自身がなりたい姿を思い描いて感謝してワクワクしているだけで、それが叶うと言われるいわゆる「引き寄せの法則」なんぞは、中途半端なプラス思考だと思ってしまうのは私だけなんだろうか?

ある意味、自分の人生を自分自身で歩いていないが故に、己を取り巻いている現実というものが視えずに妄想というものが生じるのではないかと。

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猿之助:阿闍梨という位置にいらして、また大乗仏教のお立場から利他の境地というものをどう携えていらっしゃいますか。

阿闍梨:とにかく、人に押し付けてやらせることではダメっていうことなんですね。その人自身がまず、自分が今こういう状況にいるというという、自分の置かれている現状がわかっていないことには救いようがないんです。自分自身のことがわかってないと。

だからまず、それを何らかの形でわかってもらう。そこから、こうしないとだめなんじゃないか、と。その方法として、アドバイスはいくらでもできるんですけどね。最初は一緒にやることがあっても、いきなりこれをしなければダメとは言えないですよね。人のためには結局、まずその人本人自身をわかっていただかないと、方法論が見つけられない。

猿之助:困ったから、じゃあ、これをちょっとお願いしてみようか、というようなあり方ではないんですね。

阿闍梨:お参りはそのためにはさせてもらいますけど。

猿之助:それによって奇跡や霊験で対処するということではない?

阿闍梨:奇跡を求めてもいいけれど、まずそのためには、自分でちゃんと動こうよ、と。

前回比叡山にお伺いした際に無動寺明王堂の護摩供養に参列させていただき、そしてその後お食事とお茶席の御接待を受け、光永大阿闍梨様とお話させていただくことが出来たのだけれども、大阿闍梨様は本当に自分自身で動くということの重要さを自ら体現なさっていらっしゃるお方だと感じた。

大阿闍梨様は多くは語らない。

けれども、多くは語る必要が無い程の気迫が大阿闍梨様全体を包み込んでいる。

それを言葉で表現するというのは、難しいのだろうとこの本を読んで思ってしまった、、、

初めてお食事とお茶席の御接待を受けた後に、同席していた30年来の明王堂の信者さんと言う方とお話させていただいたのだけれども、その信者さん曰く、大阿闍梨様によってもやはりお力に差があるということだった。

前の大阿闍梨さんが輪番の時には、御護摩にそんなに力を感じなかったからちょっと足が遠のいていたのよね~と明るく言われて、どう受け答えしていいのか分からなくって戸惑った表情をしていた私に、やっぱり30年来の信者と言っても、御護摩の力が無ければ頻繁には通わないわよって言っていた。

この言葉が真実かどうかは、私にははっきり言って良く分からない。

けれどもその信者さんにとって、それは自分自身が体験した上での真実だと言えるからこそ、初見の私にわざわざそのことを伝えてきたのだろう。

インターネットや本などで、誰かが言っていた言葉の字面だけなぞらえて、さも自分が体験したかのように語るのは容易いこと。

けれども、その言葉の裏に隠されたものを読み取るということは、なかなか難しいものだとこの本を読んで改めて感じてしまったのでした。

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春秋社
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