救いの手~元三大師御廟に再び

京阪石山坂本線を利用して、坂本駅に到着。

普段乗ることが無いような二両編成の小さくて可愛い電車に乗車するだけで、旅に出て良かったなぁと思う位、ホントのんびりとした良い時間を過ごすことが出来た。

そしてケーブル坂本駅まで徒歩で移動。

今回、比叡山でお伺いしなくては、と思っていたところがあった。

根本中堂方面へと向かう。

そして東塔エリアを通り抜け

延暦寺バスセンターに到着したら、横川行きのバスが丁度到着したので、慌ててそれに飛び乗った。

そして横川に到着。

司馬遼太郎さんの『街道をゆく 16 叡山の諸道 (朝日文庫)』や梅原猛先生の『横川の光 比叡山物語』、そして 第255世天台座主である渡邊惠進大僧正さまの『101歳──人生あるがまま』などを読むと、元三大師様の偉大さと言うものを改めて認識することが出来る。

本当にこういうお方がいらっしゃったという事を知ることが出来たということも、私は幸せ者だと言えるし、そしてご縁だと思う。

恐らく元三大師様の存在を知ることが無かったら、私はここまで比叡山に興味を持つことも無かっただろうと断言できる。そして元三大師様のいらっしゃる、横川という土地のその独自性は、私を惹きつけて離さない。

比叡山と高野山は比較されることが多い。

よく言われるのは、比叡山は多くの名僧を生み出したけれども、高野山からはそういった名僧は排出されなかったということ。

だからと言ってどちらが優れているとか劣っているとか、そういう問題ではないことは重々承知している。

けれども、やはり比叡山、特に横川にお伺いすると、偉大な開祖の方々がこちらで修行していたということの意味と言うものを感じ取ることが出来る。

人と言うものは、環境に左右される生き物であり、何かに気付くという些細な出来事でさえ、与えられた環境の中でしか気付くことは出来ない。

その与えられる環境と言うものには多様性があり、良い環境の中では良い気付きを得られることに対して、悪い環境の中では、悪い気付きしか得ることが出来ない。

結局は自身のレベルに見合った環境に置かれているということ。

今の自分自身の環境に不満を持っているのならば、自身のレベルを変化させなければ、ずっと不平不満を抱え、この世に生を受けたことの奇跡というものに、気付くということすらままならない。

そんなことを思いつつ、歩みを進めると前回お伺いした際には工事中だった龍ケ池は美しい姿を讃えていた。

こちらに再びお招き頂いたことに感謝してお参りさせていただいた。

そして、多くの人々は横川中堂方面へと向かう中、やはり私は元三大師様の元へと歩みを進めていた。

それは、神秘的な光景。

そして、ずっとお伺いしなくてはと思っていた元三大師御廟に到着した。

こちらに再びお招き頂いたことに感謝してお参りさせていただいた。

相変わらず掃き清められていて、そして甘い香りの漂うその地は、万人を寄せ付けない何かがある場所だったりもする。

何も感じない人には何でもない場所なんだろう。

けれども、私は本当にこの地にお伺い出来たという幸せに、ただむせび泣くしかなかった。

そして、元三大師堂へと向かって行った。


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