欲・三峯神社

三峯神社拝殿方面へ戻る。

龍を見ても何とも感じない自分。

前回お伺いした際には工事中だったお社も立派に建立されていたけれども、その外見の華々しさに何の意味があるのだろうと思いつつも、お参りさせていただいた。

頭痛や気分の悪さからは抜け出せていたものの、自分自身の「気」が落ちていることは十分に感じられた。

狛犬さんたちからも元気出せよと言われたけれども

なんで神社に来て、気を落とさなければならないのだろうという気持ちで一杯だった。

とあるお寺で、とても重要なことをお教えいただいたことを思い出す。

神社とお寺には、それぞれの役割があるという事。

神社には神様がいらっしゃり、お寺には仏様がいらっしゃる。それぞれ何故分かれているのかと言えば、神社は人々の「気」を整える場所であり、お寺は人々の「心」を整える場所であるということ。

だから神様だけ信じていても、「気」を整えることは出来るかもしれないけれども「心」を整えることは出来ない。その逆もしかりで、人の「気」と「心」と言うものは似ているようで違うということ、それを同じようにとらえている人が多いから「迷い」と言うものも生じると。

同じようなことを、とある神社でもお教えいただいた。神様だけに祈っていれば良いと言うものでは無いことを。

それまでの私は国学に影響されて神様だけ信じていれば良いと思い、お寺にお参りするということを軽んじていた面があったけれども、こういうことを神社の方からお教えいただくとは思っていなかったので、びっくりしたと同時に、それ以降、きちんと仏様にもお参りさせていただくようになった。

今思えば一介の参拝客である私に、それぞれの神社仏閣の方が貴重なお時間を割いてお教えいただけたということは、本当に幸せなことだったのだと思う。

*こういう貴重なお話をお伺い出来た神社仏閣は三峯神社ではないです、念の為(笑)

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以前は御神木に触ることが出来たけれども、今回御神木を見たらとてもじゃないけれども触れてはイケナイような気がした。

人々が御神木に触れたところに、怒っている顔のようなものが浮かんでいるように見えるのは私だけなんだろうか?

そしてお仮屋方面へと向かうと縁結びの木のところで、浮かれた参拝客がキャハキャハしているのを横目で眺めつつ

お仮屋に向かう。

ここは大丈夫だろうと思いながら石段を登る。

けれどもお守りされているお犬様達のお姿を見て愕然としてしまった。

生きている気配が全く無かった。

ここまで状況が酷くなっているのかと思いながら、お参りさせていただこうと思ったら先客が居た。

その観光客らはお参りもせずに、お仮屋の中のお犬様達をバシバシ写真に収め、同行者に「ここにも狼が居るよ~」と言っていた。そしてその人たちがその場を立ち去るまで待っていたけれども、写真を撮るのに夢中で、なかなかその場を去らなかった。

そして、ようやくその人たちが居なくなってからお参りさせていただいたけれども、今まで御仮屋に参拝させていた雰囲気とは全く違った。

こちらにはいらっしゃらないのではないかと思い、足早に近宮にお伺いすると、かろうじてお犬様の存在を感じることが出来た。

近宮でいろいろお話させていただく。

その後、興雲閣へ戻る道すがら鳥居を見ると、ゆらゆらと紙垂がなびいていた。

その余りにも寂しげな紙垂の動きに、私はいたたまれない気持ちになってしまった。

興雲閣の部屋へと戻る。

その後夕食ということで、会場に行くと、前回とは違って個室では無く、大勢の人々が居る場所での食事だった(爆)

一人旅には辛い公開処刑スタイルだわーとこれまたがっくりしながら食事をいただいた訳だけれども、ちっとも美味しく感じられなく、結構な量を残してしまった。

そして大滝温泉の源泉くみ上げポンプ故障のため、現在沸かし湯で営業中という『三峯神の湯』で入浴した。

大滝温泉の源泉くみ上げポンプ故障というのも、何かしらの意味があるのだろうと思いつつ。

部屋に戻る。

テレビはあるのだけれども、最近私は全くと言って良い程テレビを見なくなったので、持参してきた本を取り出した。

その本というのは『坐禅をすれば善き人となる―永平寺宮崎奕保禅師百八歳の生涯』と、『大祓詞の解釈と信仰 (1962年)』という二冊。

この二冊の本は私の人生を変えたと言っても過言ではない本だったりする。

けれども、何故三峯神社に行くのに、これらの本なのだろう?と思った面もあったけれども、この旅行ではこの二冊を持って行くべきだと思った面もあったので、まずは『坐禅をすれば善き人となる―永平寺宮崎奕保禅師百八歳の生涯』を読み返してみた。

この本はいつ読んでも感動する本なのだけれども、今回は欲について書かれていた箇所が一際胸を打った。

宮崎禅師は、ある時、坐禅と心との関係についてこんなことを言っていた。

「『三界は唯心象なり』という言葉がお経にある。すべては心だという意味だ。だからいつも自分の体を正しくするというのが大事だ。心を真っ直ぐにするには、坐禅をして静かな心にならなくてはいけない。静かな心になれば心が澄んでいるというのかな、いつも心が落ち着いておる。そうすると正しいことが心になる。正しいことが心になったら、思うことが真っ直ぐになる。思うことが真っ直ぐになると、言うことが真っ直ぐになる。言うことが真っ直ぐになったなら、行うことが真っ直ぐにならなくてはならない」

宮崎禅師は、心が真っ直ぐでなくてはならないと、よく言っていた。そして、そうした話をした際に、よく次のように語った。

「今は皆、モノに捕らわれておる。精神的なことを忘れておる。モノがあるから欲が起きる。形のないもの、心は不足せんように思っておる。

やはり、モノがあってこそ生活ができる。人間の欲望をかなえてくれるものは、やっぱりモノや。しかし、その欲が強欲であったり、多欲であったりするところに弊害がある。その欲をどういう風にさばいていくかというのが、人の道や。人間はどういう風に欲を制していくかということが宗教や。

しかし、今はその宗教心が欠けてきたと言ってもいい。とにかく欲が邪魔しており、多欲の人は、求めが多いがゆえに憂いも多いんや。お釈迦様の『遺教』の中にそう書いてある。

やっぱり欲を克服する術を覚えなくてはいけない。それが座禅だ。坐禅というのは息と一つになることだから、欲の起こるスキがないんや」

~中略~

「善き人になり、善き縁に会うということが大事。悪い縁に会うたら、悪い結果ができる。善き縁に会うたら、善い結果が出てくる。それを人間が欲望によって、善いこともせんのに善い報いを得ようとするのは、欲望だ。それは転倒と言って、ひっくり返った考えや。

『正法眼蔵』という九十五巻の中に、『諸悪莫作』という一巻がある。その中で道元禅師様は、『諸悪莫作 衆善奉行』と言って、諸悪、諸々の悪は作ることなかれ、諸々の善は実行せよ、と仰っておる。諸々の悪をなることなかれということは、我々は、諸悪を作れるところに住んどるんや。作ろうと思ったらなんぼでも作れるところに、生活しとんのや。

しかし、道元禅師様は、『諸悪作りぬべきところに住し、諸悪作る共に交わるににたりといえども、諸悪されに作られざるなり』と言う。作ろうと思っても作れないのが本当だ。我々は真理から出てきとるのやから。そこに邪魔者が出てくるから、諸々の悪を作ると言う。それは、何が悪を作るかというたら欲や。人間の欲望が悪いことを作るのや。

だから、『諸悪作られずなりゆくところに、修行力たちまちに現成す』。作ろうと思うても、作れないという境涯になったときに、初めて修行力ができあがる。

悪を作ろうと思ったらなんぼでも作れるんや。人を殺したろうと思ったら、言いがかりで殺せるんや。けれども、その殺されんという心があるから尊いんだ。『諸悪作られずなりゆくところに』や。作ろうと思っても作られないという本體(本性)なんだ、元来が。そういうことを自覚せにゃいかん」

~『坐禅をすれば善き人となる―永平寺宮崎奕保禅師百八歳の生涯』より引用

この三峯という地に訪れる大勢の人々。

それらの人々は何故にこの地を訪れるのだろう。

人間はどういう風に欲を制していくかということが宗教や。

今はその宗教心が欠けてきたと言ってもいい

善いこともせんのに善い報いを得ようとするのは、欲望だ

宮崎禅師様のお言葉が痛い程、身に沁みた。

そして、今回この本を再び読みかえすということにも意味があったように感じた。

今現在、この地は、善いこともしないのに良い報いを得ようとしている人々の欲望が渦巻いている土地になってしまった。それを今回ここに来て、それこそ気持ち悪い程、人々の欲というものが、如何に恐ろしいものかと言うことを体感してしまったから。。。

1年前にも同じ風景を見た。

夜の三峯の風景。

けれどもそれは同じように見えて、全く異なる印象を受けた。

坐禅をすれば善き人となる―永平寺宮崎奕保禅師百八歳の生涯
石川 昌孝
講談社
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