鎌倉宮に行ってきた

荏柄天神社を後にして次に向かったのは鎌倉宮。

鎌倉宮という神社がある事自体知らなかったけれども、荏柄天神社へ向かう道すがら、鎌倉宮への案内が出ていたので、これまたフラフラとお伺いした訳でして。

この時点で14:00を過ぎていたので、流石にお腹が減ってきたので、鎌倉宮にほど近いお蕎麦屋さんでランチをすることにした。

鎌倉宮3

鎌倉宮1

鎌倉宮

天ぷらとお蕎麦で¥1,500也。

ホントはビールを飲みたかったけれども、昼間なので自粛した(笑)

お腹を満たしたところで、鎌倉宮へ。

鎌倉宮

鎌倉宮4

手水舎

鎌倉宮5

鎌倉宮6

手水で清めて境内へ。

鎌倉宮7

鎌倉宮のHPを見ると、

鎌倉宮境内での写真撮影は、撮影料と撮影許可が必要となります。

書かれているけれど

事故防止の為、境内での三脚撮影はご遠慮ください。

とも書かれている。

結局境内で写真を撮影していいのか良く分からなかったので、境内での写真は撮らなかった。

鎌倉宮10

鎌倉宮というのは

鎌倉宮(かまくらぐう)は、神奈川県鎌倉市にある神社である。護良親王(もりながしんのう)を祭神とする。建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社。 神社本庁の包括下には当初より入っていない単立神社。別名 大塔宮(おおとうのみや)。

祭神である護良親王は後醍醐天皇の皇子で、父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現したが、その後、足利尊氏との対立により足利方に捕えられて東光寺に幽閉され、建武2年(1335年)の中先代の乱の混乱の中で尊氏の弟の直義の命で、家来である淵辺義博(ふちべのよしひろ)によって殺められた。

武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛え、明治2年(1869年)2月、明治天皇は護良親王を祀る神社の造営を命じた。6月14日に鎌倉宮の社号が下賜され、7月に東光寺跡の現在地に社殿が造営された。

明治6年4月16日に明治天皇は鎌倉宮を行幸、同年6月9日に鎌倉宮は官幣中社に列格した。

本殿の後方にある土手の穴が、親王がおよそ9か月間幽閉されていた土牢であるという古伝承がある。土窟で2段になっている。「鎌倉覧勝考」によれば、上段は入り口から6尺ばかりの深さで2間四方余あり、下段はさらに7、8尺下って9尺四方あり、周囲は赤い土であるといい、さらに、「太平記」に「建武元年五月二日大塔宮を足利直義うけ取鎌倉へ下し奉つて、二階堂谷に土籠を塗てぞ置参らせける」とあり、土の牢とは記されておらず、薬師堂谷の御所または牢の御所と書いているものもあり、土籠は塗りごめた土蔵であり、四面を禁錮して入れ置いたのであるから、牢の御所と称したにすぎないという。

Wikiより引用

というところで、いわゆる怨霊鎮めの神社だったりする。

けれども、本殿に参拝しても嫌な気は全然感じなかった。

往々にして怨霊鎮めの神社とされているところの御祭神は、弱い人々にとてもお力を下さると私は思っている。菅原道真様しかり、平将門様しかり。

本殿右手にある村上社でもお参りさせていただいていたら、本殿で御祈祷されている人々に神社の方が鎌倉宮の由来等について説明されているのが聞こえてきた。

要約すると鶴岡八幡宮よりも鎌倉宮の方が位が高いというようなことを言っていた(鎌倉宮は官幣中社、鶴岡八幡宮は国幣中社)

ちなみにWikiで社格について調べてみたら

『神道辞典』などによると、官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社>国幣小社>別格官幣社 となるが、官幣中社と国幣大社はどちらが上かなどの明確な規定はない。

Wikiより引用

と書かれていた。

参拝を終え、社務所で御朱印を頂戴しようとしたところ、厄割り石というものを発見した。

厄割り石

鎌倉宮8

その後、社務所で御朱印を頂戴しようとするも、これまた黒山の人だかり。連休中の鎌倉で御朱印を受けるのは時間がかかることなのねーなんて思いながらも、御朱印が書きあげるまで10分程度待った。

鎌倉宮9

こちらでもゆっくりと参拝してしまったので、気が付くと15時を回っていた。お寺は17時には閉まってしまうところが多い、と思い出し、慌てて次のところに向かった。

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