スピリチュアルはつかれる

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photo credit: Hikers Warning via photopin (license)

昔お伺いした、とある神社の宮司さんは語った。

スピリチュアルはつかれる、と。

私がその神社に参拝した際に、スピリチュアルにかぶれたような団体がバスに乗って押し寄せて来て、我先に社務所に向かい御朱印を求め、そして、社務所の方と会話していた私の存在を無視して、社務所の人と話を始めた。

そして、夢中で話していたその人は、仲間からはエンジェルさん、と呼ばれていた。しかし、その人からは、エンジェルという言葉とはかけ離れた、卑しい波動しか感じなかった。

スピリチュアルな団体は10分程度の参拝を終え、足早にバスに乗って去って行った。

その卑しい波動に疲れて、ふと、「ああいうスピリチュアルな人って、、、」と言葉に漏らしてしまった。

すると、宮司さんはおっしゃった。

「スピリチュアルはつかれるんですよね」と。

つかれるというのは、Tired(疲れる)ということですか?それとも憑かれる?ということですか、と尋ねたら、両方だと。

結局は、スピリチュアルに取り憑かれている人間は穢れているのだとおっしゃりたかったのだろうと、今更ながら気が付いた。

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今月初めに伊勢神宮にお伺いしたこともあってか、再び神道関係の本を読み漁っている。

神社通いを始めたころには、「古神道」というものを避けていたけれども、そういった類の本も今は読んでいる。

古神道もスピリチュアル商売に利用されている側面が目についていたので、胡散臭く思っていた部分が大きかったから、とも言える。

けれども、真っ当なことを書かれている本もある。

よくわかる日本神道のすべて (講談社+α文庫)』という本を読んだ。

そこには、私が日頃感じていたことが書かれていた。

昔「行ってはいけない神社の特徴を挙げてみた」という記事を書いたけれども、それについて具体的な記述がそこには示されていた。

神社は斎場であって”神霊の住居”ではない。ましてや人間が関与して管理している斎場であるから、その管理方法が悪ければ神社は汚れてくる。

つまり宮司や禰宜が汚れた思想を持ち込んだり、神社の清掃を怠れば、高級な清明霊は逃げてしまう。そうなれば、”神霊不在の神社”となって、低級霊や悪霊の住居となってしまう。

ところで、この”汚す”ということだが、肉眼に見える範囲のことなら清掃でこと足りるが、それが”精神的・霊的な”汚れとなると、宮司や禰宜の思想問題から、食事の問題、趣味の問題、禊(身滌)の問題が問われて厄介なことになる。

多くの場合、心霊現象に興味を持った宮司や禰宜がいる神社は、どうしても”低級霊”を呼び込みやすい。また、神秘主義者の宮司や禰宜がいる神社も汚れてくる。また神社を商業的に繁栄させようとする宮司や禰宜がいても神社は汚れてくる。

だから「神社が汚れている」という忠告は、宮司や禰宜の人格を非難攻撃することに等しい。しかし、明治以後の神社神道では「祓い浄め」が形式的になり、真剣な意味での霊的祓い浄めというものは迷信家のように軽蔑されてきたことも事実である。

例えば「祓麻」ひとつをあげても、元来これは使い捨てのものであるのに、一年ぐらい平気で使用している神社があるが、これでは”清明”を旨とする日本神道の精神から離れてくる。

宮司がいかに清掃奉仕しているかで、神社は霊的清明さを保つといえよう。また建造物は手入れが悪ければ必ず崩壊する。その崩壊そのものが”汚れ”である。

よって神霊は、その神社から去るということになる。宮司が心霊科学などに興味を持ち、拝殿や社務所での交霊会などをやりはじめると神社は汚れる。

心霊科学の指導者たちは「生ける霊が感応し、生ける神霊が天降って来るのだから、いっこう差支えはない」というが、そうした交霊会には物理現象を起こす低級霊が寄ってくる。

なるほど多くの人々は霊の存在を知るチャンスにはなるが、やがて高級霊が降臨を嫌うようになり、やがては低級霊の遊び場となる。

よくわかる日本神道のすべて (講談社+α文庫) より引用

スピリチュアルにずぶずぶな人が好きな神社では、何故か日中ヒーリングミュージックが流れて居たり、奇跡を謳っているところが多かった。

どこかって?

そう、あなたが今思った神社ですよ(笑)

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