柏手を打つ本当の理由~『神道からみたこの国の心』を読んだ

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photo credit: A Tale of Two Comforters: Two Cranial Dutch Wives via photopin (license)

最近お寺ばっかりに行っているような気がして、考えが仏教寄りになってしまっているなぁ、と思って、『神道からみたこの国の心 (徳間文庫)』という本を読んだ。

宗教、という側面で神道を考えると、難しい部分が多いとは思う。

日本人は信じている神様は居ない=無宗教ということが多く語られているけれども、日本人ほど、神様や仏様に敬意を払っている民族は居ないんじゃないか、って思う。

それこそ八百万の神様に敬意を払い、全てに対して感謝出来る民族だから。

無宗教と言われる所以は、キリスト教に代表とされる一神教ではない、ということだけれども、日常の生活を見ても、朝起きたらお日様を見て天照様に感謝して、御手洗いに入れば烏枢沙摩明王様がいらっしゃるし、台所には荒神様がいらっしゃる、というように、すべてのところに神様はいらっしゃる。

無意識に神様や仏様を拝んでいるけれども、それを自覚していないだけなんだよね。日本人って。

樋口:宗教論議となると、いつもキリスト教をモデルにして、それを最高のものと考える。そうでないものをみな下劣なものとみなしてしまう。その発想をやめなければ、本当の宗教なんて永遠に掴めないと思います。

各民族がみんな各々の経験に応じて、それぞれ違う形式の信仰を持っているというのが、自然ですよ。それを同一になれなんてのが、そもそも無理ですよね。

井沢:最近は梅原猛先生などが、もう西欧合理主義はダメだ、と言っておられますね。神道的なものというのは、その意味でも見直されていいと思いますが、どうも日本人自身がそこに気づいていない。こんな時代だからこそ、自分たちの信仰に胸を張ってもいいはずですよね。

神道からみたこの国の心 (徳間文庫) より引用


外国人観光客が多く訪れる有名神社にお伺いすると、外国人観光客が日本人参拝客の真似をして、訳が分からないような様子で柏手を打つ、という様子を見かけることもある。

確かに何故柏手を打つのか?ということについて、私はあまり深く考えたことは無かったけれども、柏手を打つことにより、自分の回りの空気が浄化されるような気がして、神様にお参りする際の簡易的な禊という意味も込めて、柏手を打っていた。

人によっては、何故柏手を打つのか?ということについて、神様に「お伺いしましたよ」とチャイムを鳴らすような作用があります、ナンテ言う人も居るけれども、そう単純なことでもないということを、この本を読んで改めて思った次第でございまして。

井沢:柏手を打つというのは、日本だけのような気がしますが、あれもシャーマニズムから来ているのですか。

樋口:そうです。今では柏手を打たない民族が多いですが、古い民族ですとほとんど打ちますよ。もとはと言えば、拍手喝采の思想です。

手を打つと、打った音響が空気にバイブレーションを起こさせるのですが、この空気の中には目に見えない精霊が宿っているわけです。その精霊が、空気のバイブレーションに刺激されて、目の前に現われる。神の力が目覚めると思って、手を打つのです。だから、二度とか四度とか数は関係なくて、考え方としては拍手喝采なんですよ。

今では基本的には柏手は二回ですが、伊勢神宮や出雲大社は四回。もとは拍手喝采の思想ですから、本当は多いほうがいいんだという考え方が、ちょっと見えてますね。

井沢:柏手と拍手というのは字面も似ていますが、それこそ同じものなんだな。日本人は何か嬉しいことがあると一人でも拍手しますけど、そうした意味があるのですね。神話にもあるでしょ。天照大神の天の岩戸の祭祀の時に、天宇受売命がストリップまがいの踊りを踊って、それを見て神々が手を叩いて喜ぶという。あれが最も古い、始まりなのかな。

樋口:そうです。神話ですから、ウズメのやった踊りが面白かったから拍手したのだと。『あなおもしろ』『あなさやけ』なんて言葉を使って説明しますが、実はそうじゃないですね。手を叩く事には、呪術的な力があって、それをすることによって神が出現することを期待したわけです。だから、昔の人にとっては、拍手とか柏手というのは、神を招くという喜びを得るための方法だったと言えます。

井沢:拍手すると、神様が出て来てくれると思うから、そうするのですね。大気中にバイブレーションを起こすと神が姿を現わすというのなら、では必ずしも柏手や拍手でなくても良いことになりますよね。

樋口:太鼓を打って神様が出てくることもあるし、鼓を打つと出ることもあります。天の岩戸の話は芸能の始まりともされますが、拍子木を打つというのもそれです。芝居の幕は拍子木の音と共に開くわけですが、あれは神様を招くための合図だと言えます。

空気の中に宿っている精霊なり神様なりを招き出すためにバイブレーションを起こして刺激すればいいのですから、音が出れば良いわけです。だからこれは、シャーマニズム的な音の響きという物理的な現象が同時に神を招く方法でもあるという信仰なんですね。

井沢:とすれば、それは言挙げ、つまり言葉を発することでもいいのですね。神様の名前をひたすら読みあげる祝詞のような。

樋口:いいんです。結局、神の降臨を願う気持があって、それでまずおじぎをする。そして神様の名前を申し上げて、手を合わせます。これが神社参拝の作法でしょ。説明では手を合わせることは陰陽合体となっているのですが、それは中国の思想の影響で、本来は音さえ出ればいいのです。

もちろん、言葉でもいい。ですが、言葉の場合は気をつけなければならないことがあって、下手なことを言うと逆も出てきます。祟りもするわけです。祟りもすれば、幸せを与えてもくれる。両方あるわけですよ。

神道からみたこの国の心 (徳間文庫) より引用

この本は、ある程度神道や仏教の知識が無いと面白くない本だとは思う。ただ、オカルト的なことが好きな人は好きな本なんじゃないかな(笑)

ちゃんとした神社に行かなくちゃな、そろそろ。

神道からみたこの国の心 (徳間文庫)
井沢 元彦 樋口 清之
徳間書店
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