伊勢志摩でサミットが行われるらしいですが、、、

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photo credit: 伊勢・志摩の注連縄 via photopin (license)

JMM(Japan Mail Media)という村上龍さんが編集長として発行するメールマガジンを講読している(と言っても無料ですけど)

今日配信されたメールマガジンは「エルマウ城から伊勢志摩へ、サミットで何を発信すべきなのか?」というタイトルで、作家の冷泉彰彦さんが書かれている「from911/USAレポート」というシリーズだったりする。

2016年のサミットが伊勢志摩に決定したことを受けて書かれているレポートだったけれども、とても興味深い内容だった。

その意味で、ちょうど、今回の「エルマウ城サミット」のタイミングで発表された、2016年の伊勢志摩サミットでは、相当の留意がされるべきと思います。既に「真珠を首脳夫人たちに紹介して経済効果を」などという話が出ていますが、これは論外です。格差の象徴である宝飾品を紹介するなどというカルチャーがG7とセットになっているようだと、G7の影響力は、例えばG20と比較すると更に地盤沈下することになるからです。

その意味で、伊勢志摩サミットで「日本のカルチャー」を紹介してゆくというのは、とても意義のあることだと思います。G7には多くの記者が同行しますから、プレス対応を丁寧にやって、詳細な資料を用意し、様々な紹介のツアーやセッションを設けていけば、首脳が動いたことの報道だけでなく、サミットを契機として日本の伝統文化に関する報道が世界に発信されていくようにすればいいのです。

重要なのは、伊勢神宮の内宮、外宮とこれを取り巻く様々な別宮などの全体を理解してもらうことだと思います。その際にポイントとなるのは、G7参加国の記者たちには「伊勢神宮は天皇家の祖先を祀った神社であり、戦前の国家神道の象徴だから戦後世界の価値観とは整合しないので、取材するのは気が進まない」とか「そもそも政治の場であるG7に宗教文化を絡めるのは良くない」という漠然とした先入観があると思われることです。

勿論、日本に駐在しているジャーナリストや、いわゆる知日派、日本通であればそのような偏見は少ないのかもしれませんが、例えば首脳の「番記者」的な人々で、特に日本文化に詳しくない人々にはそうした偏見がある可能性は、かなり想定して置いたほうがいいと思います。

折角ですから、伊勢志摩サミットは、そうした人々の偏見を改めてもらうような機会とすべきでしょう。以降は、そのためにどんな観点が想定できるかを、実際に私が昨年、2014年に遷宮の直後の「お伊勢さん」を訪れた経験を基づいてお話したいと思います。

まず、何と言っても「天照大神(アマテラスオオミカミ)」、つまり記紀によれば天皇家の祖先とされる神を祀った「内宮」が伊勢神宮の中心であることは異論のないところです。ですが、この「内宮」は、ある時代にヤマト政権が全国支配を確立して、その権威と権力を誇示するための「国家を鎮護する」的な意味合いで成立したものでは「ない」と言われています。反対に、全国に支配を拡大する過程で、東方の種族との和解の成立したことの証として建てられたという説があります。そのような議論は、各首脳や記者たちの関心を集めるでしょう。

また、多くの別宮にはそれぞれの「神様」が祀られているわけですが、そのような多神教的な考え方というのには、実は欧米の宗教学者の間では、注目がされているのです。例えばですが、ギリシャ神話、ローマ神話にあるような多神教との比較論を通じて「多神教は未開であり、一神教への成立の過程に過ぎない」という考え方は否定されてきています。そのような観点から、記紀神話の複雑性に対して、丁寧な説明を行えば関心を持ってもらえるのではないかと思うのです。

勿論、忙しい首脳と記者たちを内宮・外宮に加えて多くの別宮まで全部見てもらうのは不可能でしょう。ですが、例えば月讀宮は是非コースに入れて欲しいと思います。月讀さんと、その荒神さん、そしてイザナギ、イザナミという国生み神話と黄泉の国を介した物語の主人公たち、その四神を祀った神明造りの四社が、静謐な森の中に鎮座している空間を彼等に経験してもらうのは重要なことだと思うからです。大事なのは、そこで宗教的な感情を共有してもらうことは期待すべきでないということです。あくまで文化人類学的な知的好奇心の範囲かもしれませんが、心からの関心と畏敬の念を持ってもらえばそれで十分でしょう。

あとは、庶民信仰の問題があります。江戸期には伊勢講という一種の互助会が全国に網羅されていて、巡礼者へのファイナンスをしていたこと、その一方で「おかげ参り」というのは、古代へのあこがれというよりも「商売の神様」への素朴な感情から大きな運動になっていったことなど、現代は多角的な研究が進んでいるわけです。そうした観点から外宮の重要性を見る考えなども、紹介していけば「どうして内宮と外宮があるんだろう?」という質問に答える形で、日本文化の重層性を紹介できるのではないでしょうか?

これに加えて、式年遷宮の問題があります。式年遷宮は神道の重要な概念である「清浄さ」を維持するという思想を背景に、持統天皇の690年に第一回が行われて以来、延々と実施されてきたわけです。ですが、それは単一の政権が国費を投じて行ってきたというのではなく、例えば鎌倉時代には鎌倉政権が主導し、江戸時代には幕府が主導する形で資金が集められているのですし、現代では民間の寄付で賄われているわけです。つまり日本というのは祭政一致国家ではなく、複雑で多様な社会であり、その多様性の中から生まれた自発的なエネルギーによって、この式年遷宮という手間もお金もかかる伝統を維持してきたとも言えるわけです。

日本文化の多様性ということでは、日本の宗教の多様性という問題があります。そこには、神仏習合の問題という興味深いテーマがあります。この問題は、欧米でも日本史に詳しい人々の間ではかなり知られているのですが、この問題に関しては「明治期に乱暴に廃仏をやって国家神道を捏造したのは悪いことだ」から、その前の「神仏習合の状態が正しい」というような原理主義的な理解をする人も多いようです。

この問題はそう簡単ではなく、例えば神仏分離の考え方は明治期に唐突に出たわけではなく、江戸期にゆっくりと起きたのではという論点があったり、また神仏習合に関して日本の独自性がどのぐらいあるのかといった論争もあるわけです。実は、アメリカの日本史研究家の間では、この神仏習合の問題というのは、多くの専門家が大変な情熱を傾けて研究しているテーマでもあるのです。

それは、先ほど申し上げたような「国家神道の日本が嫌いだから、神仏習合に親しみを持つ」というような「不純な動機」では、多くの場合ありません。神道と仏教という「全く異なる思想体系」が、どのように重なっていったのかということを調べることが、人類に普遍の価値、すなわち「異なる価値観の共生」や「ロジカルな思想と感性的な思想のバランスと共存」といった問題にリンクするからです。

この点に関しては、伊勢神宮のある三重県の場合は、確かに明治期の廃仏毀釈によって極めて多くの寺院が廃されたのは事実です。伊勢神宮の「神宮寺」に関してもそうです。ですが、あまり知られていないのですが、伊勢神宮には奇跡的に一つのお寺さんの遺構が残っています。それは、「慶光院」という内宮の参道にある尼寺で、現在は廃寺となっていますが、立派な建物が残っています。

どうしてこの「慶光院」が残っているのかというと、それは室町時代に式年遷宮が100年以上中断して神宮が荒廃した時期に、このお寺さんの尼僧が奔走して資金を集めて神宮の式年遷宮を復活させたという「恩義」があるからという考え方があります。それはともかく、いずれにしても、国家神道の時代を通じてこの「慶光院」の建物が残ったというのは歴史的な事実だと思います。この「慶光院遺構」は、年に一度公開されているようですが、可能であればサミットの取材陣には特別公開して、日本文化の重層性、多様性の象徴として理解してもらえればと思うのです。

伊勢神宮は確かに内宮を中心とした「天照大神」信仰の場でありますが、同時に外宮があり、多くの別宮があり、また慶光院の遺構があり、その全体が示しているのは日本文化の経てきた時代の重みに加えて、時代時代によって変化してきた多様性と重層性の構造なのだと思います。

アメリカに多くの日本史学者があって、研究と教育に幅広い活動をしていることは、例えば今回の「声明文」への署名によって改めて脚光を浴びたわけですが、彼等の多くは、このような日本文化の多様性と重層性を真剣に研究しています。

確認ですが、それは「国家神道など悪しき日本を否定して、自分の受け入れられる、人畜無害な日本を探そう」というようなことではないのです。そうではなくて、欧米における伝統的な一神教的な、あるいは善悪二元論的な思考パターンが行き詰まっている中で、それとは違う「異なるものの共生」を中心に据えた思想として、日本文化に積極的な意味を見出そうとしているからなのです。

その意味で、2016年の伊勢志摩サミットで改めてG7諸国において伊勢神宮とその周辺の文化に関する関心が高まるのは良いことだと思います。「国家神道と重ねることで嫌われるのでは?」などという余計な心配は無用です。キーワードとしては「庶民信仰、パトロンの多様性、神仏習合」といった辺りに留意しながら、積極的な文化メッセージの発信を期待したいと思います。

そこで丁寧で知的な発信ができれば、それは各国の「番記者」の心をも動かし、日本に関する優れた記事を配信してもらえることになるでしょう。バイエルンの「豪華なリゾートホテル」で「オペラ・コンサート」などという企画とは、比べ物にならないようなサミットが実現できるのではないでしょうか。

~JMM [Japan Mail Media]   No.849 Saturday Edition より引用

日本人でさえも良く理解できていない、神道と伊勢神宮を外国人に理解してもらうということは、至難の業だとは思う。

それを証拠に、伊勢ではあまり外国人観光客にお目にかかることは無い。

式年遷宮後には、少し見かけたけれども、世界遺産になっていないことが幸いとなっているのか、京都や奈良の有名神社仏閣に比べたら、ほとんど居ないに等しい。

それ位、伊勢神宮というのは、外国人には理解できない聖地だからだとは思うけれども。

華美な社殿がある訳でも無く、目を引くような仏像がある訳でもない。

伊勢神宮というのは、ただ、感じる場所だから、目に見えるものだけを信じている人だと、何もない、つまらない場所だということで。

それを証拠にトリップアドバイザーの外国人観光客のレビューには行く価値が無いとも書かれていたりする。

Hopeless city of Ise with absolutely no information in English on how to get around and where to stay etc. Why can’t Ise be like all other Japanese towns these days – welcoming to foreign visitors. The shrine is half hidden behind wooden fences and you can only peek over the top to see it. Unless you are a Shinto worshipper there is no reason to go here

とかね。

以前赤福の前社長が「おかげ横丁に外人来てほしくない」と発言したことが話題になっていたけれども、それは悪意ではなくて、ただ単に伊勢と言う場所を守りたかったから発した言葉だったんじゃないかなぁと思ったりした。

私は別にレイシストじゃないけれども、先月のGWの旅行中に訪れた春日大社でアジア系外国人観光客が聖域で大声でしゃべっていたことや、桜の季節にお伺いした吉野で、桜の木の枝を思いっきり揺らして、桜の花びらを舞散らして記念撮影していた白人観光客など、行く先々で外国人観光客のマナーの悪さに遭遇する場面が多いので、外国人が神社仏閣に来るということに、センシティブになっているのかも知れない。

赤坂の豊川稲荷東京別院でも、スターバックスのコーヒーを手に、境内を散策していた外国人のカップルを見て、信仰の場を荒らすな、と思ったしね。

伊勢志摩がサミットの会場となったことで、地元では喜んでいるのかも知れないけれども、それに付随する弊害にも対処していけるのかしらん、と思ったりするのでした。

ま、サミット云々を別にしても、伊勢も良いところだし、サミット会場となる賢島も自然に溢れていてとても良いところです(伊勢通いをしていた頃に、伊勢市内でホテルが予約出来なくって、賢島に泊まったことがあるのですが、予想以上にいいところだったのです)

伊勢神宮に行ったら足を延ばして、賢島に宿泊してみるのもイイカモしれませんね。

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